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むせ返るような芳香、甘い蜜。蝶のような優雅さで。 そのカラダに鋭い棘を隠して。
はじめに

ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。

過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
2008.5.6 Asato.S
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 ガラスの向こうの彼は、楽しげに笑っていた。

 ブースの中からの、スピーカーを通して、彼の声を聞く。バスというよりテノールの、耳に心地良い澄んだ声。
 それはいつもと同じ。ラジオの前で正座する水曜の夜と同じ。
 でも違うのは、すぐ目の前に彼がいる。

 ガラスを一枚隔てたその場所で、聞き慣れた声で。子供っぽさを残した無邪気さで、身振り手振りを交えながら。
 目の前で、誰かのメールを読み上げる。
 私は呆然と立ち尽くした。
 
 ――今日はたくさんのリスナーさんが見に来てくれてまーす。
 
 そう言って、こちらに手を振る。
 沸き上がる歓声。
 
 胸の奥がゴウと熱くなった。
 あぁ、もういいや。
 あの笑顔が私だけのものじゃないと分かってるけど、それでもいいや。

 
 瞬きをするあいだのような、あっという間の30分。まだ夢から覚めていない心地のままで、私は人の波の中に居た。
 ビルから外に出ると街の喧騒が広がる。夏を目前に控えた都会の夕刻は、じわりと暑かった。

 
 人の波を縫う様に擦り抜けて、待ち合わせ場所へ。
 駅前のドトールで、女友達はコーヒーを飲んでいた。
 席に着くなり、ニヤリ笑顔が向けられる。

 
「どうだった?」

 一息をつく間もないまま、私は答える。


「よかった」

 胸がいっぱいすぎて、それしか言えなかった。

 この気持ちをどうして表現すればいいのだろう。
 目を閉じればまだ彼の姿が焼き付いているのに、耳の奥で彼の声が木霊しているのに。それを伝える言葉を、私は持ち合わせていない。
 
「よかった。凄くよかった。素敵だった」

 似たような言葉ばかりを並べて、でもやっぱり言い表せなくて。
 興奮したままの私の言葉に、彼女は優しく微笑んだ。
 そっか。

「それは良かったじゃない」

「うん」


 うん、うんと必死に頷いて。
 もう声すら出せなかった。
 からり。
 グラスの中で氷が音を立てた。
 よく澄んだ、涼しげな音だった。


「それじゃ、次はライブに行かなきゃね」


 泣きそうな私の頭をくしゃりと撫でてくれて。
 また、壊れた人形のように何度も頷くしかできなくて。

 
 よかったよ。
 すごくすごく、良かった。
 出逢えて良かった。
 

 涙を零す瞼の中の暗闇で、あの人は今も無邪気に微笑んでいた。
 
 そうして私は、ますます彼のファンになる。

Fin.

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「――依。未依?」


 目を開けると、真っ白な天井。そして、心配そうに覗きこむ瑞希の顔。


「良かったぁ。気がついた」

 瑞希?そう呼ぶと、彼女は安堵の息を漏らし、それからにこりと微笑む。

 ぱちぱちと、目を瞬かせる。
 どうやらここは、学校の保健室らしい。


「貧血だって。寝不足?朝食べて来た?」
「包帯…」
「落ちた時にね、捻ったみたいだって」

 手首に巻かれた白い布。試しに動かしてみると、かすかにズキリと痛みが走った。

 落ちた?私、どうしたんだっけ。

 それから段々と、階段を落ちたのだという事実を思い出す。前後の記憶ははっきりしないけれど、確か、足を滑らせて。
 まだ、頭の中がぼんやりしていた。

「心配したよう。未依全然目ぇ覚まさないんだもん」
 少し拗ねたような瑞希の顔を見て、私の心はすっと軽くなった。

「そっかぁ。ごめんね、迷惑かけて。ずっとついててくれたの?」

 そうだよ、と頷く彼女の笑顔が温かかった。
 その屈託のない笑みに、見知らぬ少女の笑顔が重なった。
 満面の笑み。瑞希とその少女とで決定的に違うのは、なんだろう。
 どこかで見たような。ついさっき、会ったことがあるような。

 ああ、そうだ。階段を落ちる直前に出逢った、あの笑顔だ。私は彼女に、何と言われたんだっけ。
 良く思い出せない。いったいあれは何だったんだろう。
 ぼんやりと頭の片隅で考えながら、寝ぼけていたかな、と首を傾げる。

「ちゃんと気をつけないと。だって今回は」


 どこかで、チャイムの音がした。
 廊下を歩く生徒の足音が…すごく遠い。
 

「語尾を少しだけ、間違えただけだもんね」
 


「…瑞希?」


 彼女の言葉に、笑顔が凍りつくのが分かった。

 
End...

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「高橋くんは、そうじゃない…もん…ね…?」

 恐る恐る、後者を選択した私。

 とっさに間違った、と思った。

 しかし瑞希はそれを指摘したりはしない。「だよねぇ」と苦笑しながら相槌を返した。私はほっと息をつく。それから少し笑った。

 当たり前だ。このゲームは私が勝手にしていること。間違ったからと言って、瑞希や他の人がそれを分かるはずがない。
 だから私も、「でしょ?」と笑い返す。その時、擦れ違いざまに誰かが私に声をかけてきた。

「あ、ねぇねぇ」

 階段の途中、歩きながらふと振り返る。
 別の学年の女の子だろうか。そこには、顔なじみではない少女がいた。何か落としただろうか、と首を傾げる。
 
「今――間違ったでしょ?」

 爽やかに微笑を浮かべる彼女の、セリフ。
 

「何…?」

 見知らぬ少女は、私を見てニヤリと笑った。
 そしてもう一度、背筋の冷たくなるような明るい声で。
 

「間違えた、でしょう?」

 
 耳を疑った。

 何を?
 もしかして。まさか。
 だってこれは、私ひとりのゲーム。それなのに。


 
 どうして しっているの?


 
 思わず後ろに下がる私の足が、階段を踏み外した。
 がくり、と体が傾く。
 とっさに手を伸ばすことも忘れて、身の縮まるような寒気が、全身を包んだ。

 階段が……

 落ちる、と思った。
 けれど、それどころじゃなかった。

 目に焼きついて離れないのは、少女の微笑み。

 

 そこで意識は遠のいた。

 瑞希が私の名前を叫んだ、気がした。

 

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