ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
カナリアは。
後先のことは考えていなかった。
ただ一心に、その鳥を救おうと必死だったのだ。
傷の癒えきっていない鳥は、羽ばたくことが満足に出来ない。いつかは治るかもしれない。けれど、まだ、その時期まできていないのだ。
自分も飛ぶ術を持たないことも忘れて。
まだ『見習い』の彼女は、空を自由に行き来する方法を持ち合わせていない。いくら空の民だといっても、地上に叩きつけられれば消えてしまうのに。
それでも、少女は。
まだ飛べないその鳥に、手を伸ばした。
「大丈夫、大丈夫よ」
目まぐるしく世界が変わる落下の中。しっかりと、その小さな命を抱きしめて。クルル、と。大気が擦れる中で、鳥が鳴く声が聞こえた。
「大丈夫だから…」
優しく語り掛けて。もう離してしまわぬように。
そして、なす術も無く落ちてゆく。
どうしよう。
どうしよう。
少女は唐突に、今置かれている状況を悟る。
このまま、落ちて消えるのだろうか。
せっかく救おうと思った命さえ、私の腕の中で消えるのだろうか。
大地って、どんなところだろう。
落ちたら、痛いのかな。
もう二度と、あの雲の上には戻れないのだろうか。
まだ、仕事も覚え始めたばかりだったのに。
ぎゅっと目を閉じて、いつか辿り付く、まだ見ぬ地上の事を思った。
それから、ハルと、ジェイドのことを。
そのとき。
ふわりと、落下速度が遅くなって、カナリアを何か温かいものが包み込んだ。
もう消えてしまったのか、と恐る恐る目を開ける。
飛び込んできたのは、優しい若葉色。
「ハル…!」
その腕に抱きしめられながら、彼の顔を見つめた。カナリアの顔に、安堵の色が浮かぶ。
ハルは少女に優しく微笑んで、そして、放してしまわない様に抱え直した。
「しっかり掴まって。このまま、門の場所まで戻る」
ジェイドはひとり、門の前で待っていた。
彼は歯噛みする。
こんな時でさえ、門番はここを離れられない。ハルが飛び出して行ってからも、ただそわそわと待っていることしか出来なかった。
「カナリア!」
いくらもしないうちに二人は戻ってきた。
心臓を縛っていた鎖が取れたように溜め息を吐いた。
「良かった…」
雲の上に降り立ったカナリアは、放してもらってすぐにジェイドの元へ駆け出した。
「ジェイド――」
彼の顔を見て、再び安心したように微笑む。
カナリアに手を伸ばす彼。
少女が取ろうとしたその腕を、遮る者がいた。
ハルだ。無表情のままで、二人の間に割って入る。
そして、
ぱしん、と小気味良い音が空に響いた。
「ハル!?」
驚いたカナリアが声をあげる。
門番は、赤く色のついた頬のまま、ハルを見つめ返した。
ハルが、ジェイドを叩いたのだ。
調子はどうだい?尋ねると、ハルは首をすくめる。
「つつがなく」
「そうか、良かった」
「今季の冬は寒かったから、雪が溶けきるのにはもう少しかかるだろう…ところで」
彼はちらりとカナリアのほうを見て、その手元を視線で示した。
「あの鳥は、カナリアが世話しているのか?」
カナリアとその鳥が、少し離れた所、門の側で遊んでいる。それを確認してから頷く。
彼女に鳥を託して以来、熱心に世話を続けている。
傷ももう大分癒えた。あとは羽ばたきに耐えられれば、空に戻ることも出来るかもしれない。ここまで良くなったのも、彼女の愛情ゆえだろう。
しかしハルはあまりいい顔をしなかった。
彼の若葉色の髪が、太陽の日に透けて鮮やかに輝いた。
「感心しないな。あまり懐くと、ここを離れなくなるぞ」
「分かってる。でも、彼女が世話したいって熱心だから、つい」
ハルは眉根を寄せた。
不満はありそうだが、カナリアの意思なら、彼も否定できない。
「結局、お前も甘いんだな」
「お互い様だろう?」
ジェイドがニヤリと笑うと、彼もまた珍しく苦笑する。どうやら、自覚はあるらしい。
「…早く、放してやれ」
そろそろ戻ろう、というハルの呼びかけに、カナリアが立ち上がる。
それを横目にしながら、ジェイドにも一言二言を残す。
「暫くは忙しい。そろそろ雪を片付け終わらないといけない」
「応援してるよ」
にっこりと微笑むジェイド。門番はまたこのまま、ぼんやりする時間に戻るだけである。
ハルが、あまり感情の籠もらない応援に適当に頷いた、その時だった。
「だめよ、そっちは」
彼女の慌てたような声が、二人の耳に届いた。
「…カナリア?」
怪訝に思い、カナリアのほうを振り返る。
彼女は二人の立つ場所とは反対の、雲の端に顔を向けていた。そして慌てて歩き出す。
視線の先を辿る。すると、ついさっきまでカナリアと戯れていたあの鳥が、よたよたと雲の端のほうへと歩いていた。
それを止めようと、カナリアが後を追いかける。
その様子に、嫌なものが背筋を伝う。
「危ないよ、カナリア」
とっさに声をかけるも、彼女の足は止まらない。
鳥もまた、雲の端を目指すことを止めない。
そして。
ころりと、鳥が雲の端から転げ落ちるのが見えた。
カナリアが叫ぶ。
「だめ――…!」
叫びながら、それを止めようと。
手を伸ばしながら、必死に走り出した。
「あ…っ!!」
間に合うはずがない。辿り付くまでまだ数メートルある。
しかし少女には、そんなことは問題ではなかった。
走る。走って、必死に雲の下に手を伸ばす。
そして、そのまま。
「カナリアっっ!!」
少女の名を呼んだのは、二人同時だった。
カナリアはそのまま、鳥を追いかけるように雲の下へ落ちていった。
足を滑らせるようにして。
ジェイドが一羽の鳥を抱えているのを見て、カナリアが言う。
今の時間、ジェイドはただ門の側に佇むだけ。とはいっても、これもまた正式な門番の仕事である。交代の時間が来るまでは、カナリアのお喋りの相手だ。
「治療しているんだ。もう遠くへは飛べないかもしれないけれど」
「どれくらいかかるの?」
傷を抱えた白い鳥は、門番の腕の中で体を小さく上下させて眠っていた。
「この冬いっぱいくらいはかかるかなぁ」
純粋な瞳に、微かに首を振った。
すると少女は一瞬何かを考えた後、益々瞳を輝かせジェイドを見上げた。
「じゃあ、私に世話をさせて」
その傷ついた鳥の羽根を、優しく優しく撫でながら。
労わり、愛しむように。
「冬は仕事が無いから、たくさんここへも来れる。それに、今は忙しいんでしょう?」
小さな空見習いの言葉に、ジェイドは戸惑いを見せた。
事実、冬は渡り鳥の多い季節で、まだ今年の鳥の数を集計し終えていない。この鳥の世話をしていられるのは門の見張りの時間だけで、その他の仕事時間は忙しい。
それに、と彼は考える。
期待に胸を弾ませる、幼い少女。
暫く悩んだ末、微かに笑いながら頷いた。カナリアのその希望に満ちた表情と、熱意に負けて。
「じゃあ、任せようかな」
そうして、抱いていたその鳥をカナリアに託した。
少女は微笑む。
その小さく柔らかい生き物を、壊してしまわないようそっと包み込んで。
季節の移り変りというのは早いものである。
ましてや、地上と比べて空の上は更に。カナリアがこの空の街にやってきてから、もうひととせが廻っていた。
「カナリアは元気にしていたみたいだな」
一年ぶりにこの空に帰ってきたハル。友人の門番に会って、第一声がそれだった。
ジェイドは少し呆れ気味に、
「そりゃあもう、相変わらず好奇心旺盛だったよ」
「また嘘を教えたりはしていないな?」
「大丈夫、大丈夫」
ハルは本当に本当にカナリアを大事にしているらしい。
空には地上と違って『血縁』というものがない。けれど、ハルはまるでカナリアを『実の妹』のように可愛がっている。過保護、と言ってもいい。普段の彼には想像できない溺愛ぶりだった。
ふいに、ハルが口を閉ざした。
まだまだ続くだろうと思っていた言挙げが突如終わり、奇妙に思ったジェイドは彼を見た。
すると彼は、頭を下げたのだ。普段は信用しているのか疑わしい門番に対して。
「秋と冬の間は面倒を見られない。だから、これからも、頼む」
どこまでも真剣で真摯。それは本心からカナリアを大切にしていることと、本当は、この古くからの友人を信頼しているという証でもあった。
「勿論だよ」
ジェイドは柔らかに頷いた。
それは、照れ隠しや皮肉ではない。誠意でもって答えたのである。
あとでまた来る、と言い残して、ハルは宮殿に仕事へ向かった。
今日からはカナリアも宮殿に入る。彼女はほとんど毎日遊びに来ていたため、門の辺りは拍子抜けするほど静かだった。静謐とした門の前で、ジェイドはぼんやりと雲の下を眺める。
「雲が早いなぁ」
嵐が来るのかもしれない、と、漠然と考える。
傍らでは、もう大分回復した鳥が、羽毛を上下させながら寝入っていた。
穏やかだった。
彼は基本的に『平穏』が好きだ。安穏でもいい。
ただぼんやりと、時間が流れていく様子を見つめている。
これが将来、十年も五十年も続くと知っていても、恐怖は感じなかった。自分を見失うんじゃないかという不安すら感じない自信があった。
つくづく、門番に向いた性格だと自嘲する。