むせ返るような芳香、甘い蜜。蝶のような優雅さで。 そのカラダに鋭い棘を隠して。
はじめに
ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
2008.5.6 Asato.S
男が風呂敷包みを抱え直すのが、視界の端に確認することが出来ました。
その腕が、かすかに震えています。
私が思うより男は追い詰められているようでした。息を殺しながら、恐怖に耐えているように見えました。
彼の感じている、恐怖。畏怖。
その原因が何なのかは分かりません。
けれど。
私自身、何故その恐怖を一緒になって感じているのか。
目の前に立つ、漆黒の姫から伝わる『怖ろしさ』。
『怖い』。
立華が怖いのです。
いいえ、怖いのは彼女ではなく。
この空間の、空気。気配。存在。そして。
「けれど安心をし。お前はもう追われないよ。その抱えた後悔にも恐怖にも、もう苦しめられることはない」
一瞬だけ、立華の笑顔が優しさで溢れたように見えました。それを受けて、男の張り詰めた気配もゆるみました。
しかしすぐに、それがただの錯覚にすぎないということを知るのです。
妖艶な笑み。
にたり。
ぞくり、背筋が凍りつくような嘲笑。
ほう、と、思わず溜め息が零れてしまうほど様になる絶美。
「まぁ、もう戻ることも出来ないけれどね」
その一言に、男が目を見開きました。
何を察したのか、何を理解したのか。若い男が、じりじりと後ろに下がります。
その顔は既に青白く、その目は既に立華を見てはいませんでした。
「やめてくれ…やめてくれ…」
やめてくれ、やめてくれ。
ただただ、熱にうなされる様に繰り返し呟くだけ。
やめてくれ、やめてくれ。許してくれ。
その腕が、かすかに震えています。
私が思うより男は追い詰められているようでした。息を殺しながら、恐怖に耐えているように見えました。
彼の感じている、恐怖。畏怖。
その原因が何なのかは分かりません。
けれど。
私自身、何故その恐怖を一緒になって感じているのか。
目の前に立つ、漆黒の姫から伝わる『怖ろしさ』。
『怖い』。
立華が怖いのです。
いいえ、怖いのは彼女ではなく。
この空間の、空気。気配。存在。そして。
「けれど安心をし。お前はもう追われないよ。その抱えた後悔にも恐怖にも、もう苦しめられることはない」
一瞬だけ、立華の笑顔が優しさで溢れたように見えました。それを受けて、男の張り詰めた気配もゆるみました。
しかしすぐに、それがただの錯覚にすぎないということを知るのです。
妖艶な笑み。
にたり。
ぞくり、背筋が凍りつくような嘲笑。
ほう、と、思わず溜め息が零れてしまうほど様になる絶美。
「まぁ、もう戻ることも出来ないけれどね」
その一言に、男が目を見開きました。
何を察したのか、何を理解したのか。若い男が、じりじりと後ろに下がります。
その顔は既に青白く、その目は既に立華を見てはいませんでした。
「やめてくれ…やめてくれ…」
やめてくれ、やめてくれ。
ただただ、熱にうなされる様に繰り返し呟くだけ。
やめてくれ、やめてくれ。許してくれ。
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くらり。
霧の夜が歪みました。
「見ておいで、八重」
声につられて、私は姫様の…立華の見る先に目を遣りました。
そこには変わらず白い闇。しかし、その向こうがまたくらりと震えました。
そして次の瞬間。霧の向こうから、男がつまずくようにして転び出て来ました。
「なんだ、ここは」
外套をまとい、それなりに身綺麗にした男。父様より少し若いくらいの精悍な顔立ち。手にはしっかりと落とさぬように、紫の風呂敷包みを抱えていました。
彼は酷く怯えていました。
季節外れの蜜柑の花、白い曼珠沙華。男が不審に思うのも無理はないと思いました。
「おい、お嬢ちゃん。ひとりで何をしているんだ」
ひとりで?
私は思わず立華を振り返りました。しかし彼女は微笑んで口許に人指をあてるだけ。
戸惑っていると、男は一人で話を続けました。
「ここに居ちゃいけない。ここは何だか嫌な場所だ。俺と一緒に帰ろう」
何かに焦っているような。しかし、それが何かは分かっていない様子でした。おそらく彼の本能が知らせているのでしょう。
あるいは、もっと他の、何かに怯えざるを得ない理由が。
「さぁ早く。早く帰らないと」
「帰るって、どこにだい」
唐突に言ったのは立華でした。
私も、対峙している男も、驚いて彼女を見つめました。
しかし私よりも驚いているのは若い男。彼は目を見開きました。
「あんた…どこから…」
今まで居なかったはずだ、そう呟いて彼女を睨むように見つめました。額にはうっすら、冷たい汗を滲ませています。
「お前には帰る場所があるのかい」
先刻私に向けられたそれとは違う、嘲るような問い詰めるような声音。男はびくりと身を縮めました。
なにを。声にならない声を口の中で呟きます。ああ、その汗はどうやら、怯えている所為だけではないようです。
「逃げてきたんだろう? 随分と必死にね。お前は自分の欲のためだけに人の人生を食い潰したんだろう」
「違う!!」
立華の声を、悲痛な叫びが遮ります。
今にも泣き伏せってしまいそうな、男の様子。
拒絶でした。彼が拒もうと必死なのは、目の前の女性か、それとも、私には知り得ない真実か。
尚も漆黒の姫は嗤います。
「その中には、何が入っているんだろうねぇ」
霧の夜が歪みました。
「見ておいで、八重」
声につられて、私は姫様の…立華の見る先に目を遣りました。
そこには変わらず白い闇。しかし、その向こうがまたくらりと震えました。
そして次の瞬間。霧の向こうから、男がつまずくようにして転び出て来ました。
「なんだ、ここは」
外套をまとい、それなりに身綺麗にした男。父様より少し若いくらいの精悍な顔立ち。手にはしっかりと落とさぬように、紫の風呂敷包みを抱えていました。
彼は酷く怯えていました。
季節外れの蜜柑の花、白い曼珠沙華。男が不審に思うのも無理はないと思いました。
「おい、お嬢ちゃん。ひとりで何をしているんだ」
ひとりで?
私は思わず立華を振り返りました。しかし彼女は微笑んで口許に人指をあてるだけ。
戸惑っていると、男は一人で話を続けました。
「ここに居ちゃいけない。ここは何だか嫌な場所だ。俺と一緒に帰ろう」
何かに焦っているような。しかし、それが何かは分かっていない様子でした。おそらく彼の本能が知らせているのでしょう。
あるいは、もっと他の、何かに怯えざるを得ない理由が。
「さぁ早く。早く帰らないと」
「帰るって、どこにだい」
唐突に言ったのは立華でした。
私も、対峙している男も、驚いて彼女を見つめました。
しかし私よりも驚いているのは若い男。彼は目を見開きました。
「あんた…どこから…」
今まで居なかったはずだ、そう呟いて彼女を睨むように見つめました。額にはうっすら、冷たい汗を滲ませています。
「お前には帰る場所があるのかい」
先刻私に向けられたそれとは違う、嘲るような問い詰めるような声音。男はびくりと身を縮めました。
なにを。声にならない声を口の中で呟きます。ああ、その汗はどうやら、怯えている所為だけではないようです。
「逃げてきたんだろう? 随分と必死にね。お前は自分の欲のためだけに人の人生を食い潰したんだろう」
「違う!!」
立華の声を、悲痛な叫びが遮ります。
今にも泣き伏せってしまいそうな、男の様子。
拒絶でした。彼が拒もうと必死なのは、目の前の女性か、それとも、私には知り得ない真実か。
尚も漆黒の姫は嗤います。
「その中には、何が入っているんだろうねぇ」
やがて祭囃子は遠ざかっていきました。
蜜柑の木の下から這い出すと、漆黒の姫は煙管を咥え、甘い紫煙をくゆらせていました。
私を見ても、にやりと微笑うだけ。それ以上は何も、話しかけてくることも、追い払うこともしません。
私は居心地の悪さに耐えられず、自ら話しかけました。
「あたしは、ここに居てもいいの」
白と黒とに支配された夜の中、馴染んでいないのは私の菫色の夜着。私だけが居てはいけないもののように、この確立した世界に紛れ込んでしまった異分子のような錯覚を憶えました。
彼女は唇から煙管を離し、ゆっくりと口を開きました。
「いいんだよ。今夜は良い夜だからね。付喪神たちが騒ぎ出してしまうほどにね」
まるで絵巻の中から抜け出したようなその姫様は、いつの間にか手に帳面のようなものを持っていました。懐にしまうにはやや大きい、黒い革張りの手帖でした。
目を留めると、紅唇を月の剣のように歪ませて微笑みました。
「おや、この手帖が見えるのかい」
私は小さく頷き返します。すると漆黒の姫は益々興味深そうに私を見つめます。
「じゃあ特別に教えてあげようね」
まるでとっておきの内緒話をするように。顔を近づけて、薄く嗤いました。
「これはね。人間の名を書きとめるための手帖だよ」
それから私にも覗き込めるように広げて、そこに並んだ文字を指しました。
筆で書かれた流麗な文字。それは誰かの名前のようでした。見知らぬ名前が、つらつらと書かれています。その中にひとつ、見覚えのある名前。
「これはおとつい死んだ童。それからこれは、今晩死ぬ男の名だよ」
そのようなことを、まるで軽々しく口にしました。むしろどこか誇らしげに、それでいて自慢げに。
私は悟りました。
おそらくこれは鬼籍なのだ。黄泉の国の入り口で、閻羅の王が記するというそれと同じの。
この手帳に名前を書かれれば最後、死んでしまうのだ、と。そう漠然と理解しました。
「お前、名はなんというんだい」
やがて姫様はその手帖を閉じ、息を呑んだまま動けなくなっている私に問いました。
私は応えます。存外、心の奥では落ち着いていました。
「やえ」
「八重咲きの『やえ』かい」
彼女は私の頭に飾った八重咲き牡丹の簪(かんざし)を見つめて言いました。赤い赤い、見事な牡丹を模した細工。つい先日の十六の誕生日に母様がくれた簪でした。
私は黙って頷きます。
するとまた微笑んで、
「私は立華(たちばな)。ひとの仔に見破られたのは初めてだよ」
立華と名乗るその女性。そして季節外れの白い花。
彼女がひとでないことと、この場所が私の普段生きる場所と違うことは、既に疑いようのないものになっていました。
ここは狭間だ。
此の岸と彼の岸の。
それなのに、ちっとも恐ろしくない。
蜜柑の木の下から這い出すと、漆黒の姫は煙管を咥え、甘い紫煙をくゆらせていました。
私を見ても、にやりと微笑うだけ。それ以上は何も、話しかけてくることも、追い払うこともしません。
私は居心地の悪さに耐えられず、自ら話しかけました。
「あたしは、ここに居てもいいの」
白と黒とに支配された夜の中、馴染んでいないのは私の菫色の夜着。私だけが居てはいけないもののように、この確立した世界に紛れ込んでしまった異分子のような錯覚を憶えました。
彼女は唇から煙管を離し、ゆっくりと口を開きました。
「いいんだよ。今夜は良い夜だからね。付喪神たちが騒ぎ出してしまうほどにね」
まるで絵巻の中から抜け出したようなその姫様は、いつの間にか手に帳面のようなものを持っていました。懐にしまうにはやや大きい、黒い革張りの手帖でした。
目を留めると、紅唇を月の剣のように歪ませて微笑みました。
「おや、この手帖が見えるのかい」
私は小さく頷き返します。すると漆黒の姫は益々興味深そうに私を見つめます。
「じゃあ特別に教えてあげようね」
まるでとっておきの内緒話をするように。顔を近づけて、薄く嗤いました。
「これはね。人間の名を書きとめるための手帖だよ」
それから私にも覗き込めるように広げて、そこに並んだ文字を指しました。
筆で書かれた流麗な文字。それは誰かの名前のようでした。見知らぬ名前が、つらつらと書かれています。その中にひとつ、見覚えのある名前。
「これはおとつい死んだ童。それからこれは、今晩死ぬ男の名だよ」
そのようなことを、まるで軽々しく口にしました。むしろどこか誇らしげに、それでいて自慢げに。
私は悟りました。
おそらくこれは鬼籍なのだ。黄泉の国の入り口で、閻羅の王が記するというそれと同じの。
この手帳に名前を書かれれば最後、死んでしまうのだ、と。そう漠然と理解しました。
「お前、名はなんというんだい」
やがて姫様はその手帖を閉じ、息を呑んだまま動けなくなっている私に問いました。
私は応えます。存外、心の奥では落ち着いていました。
「やえ」
「八重咲きの『やえ』かい」
彼女は私の頭に飾った八重咲き牡丹の簪(かんざし)を見つめて言いました。赤い赤い、見事な牡丹を模した細工。つい先日の十六の誕生日に母様がくれた簪でした。
私は黙って頷きます。
するとまた微笑んで、
「私は立華(たちばな)。ひとの仔に見破られたのは初めてだよ」
立華と名乗るその女性。そして季節外れの白い花。
彼女がひとでないことと、この場所が私の普段生きる場所と違うことは、既に疑いようのないものになっていました。
ここは狭間だ。
此の岸と彼の岸の。
それなのに、ちっとも恐ろしくない。
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