ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
嶋原結遊女語
(しまばらむすびゆめがたり)
「今宵流るは霞か雲か」
声が聞こえる。
艶やかな女の声だった。
「はやる白羽は桜か雪か」
歌が聞こえる。
しとやかな御座敷の歌だった。
まだ灯も入らない廓(くるわ)の通り。
昼見世を控えた大きな置屋の二階、格子の入った窓の中で、一人の遊女が煙管をふかしていた。
位は太夫に次ぐ天神だった。髪には笄(こうがい)と前びら、べっこうの大櫛、菖蒲(あやめ)の花簪。華やかに着飾った彼女の打掛と帯の見事なこと。
「夢のかんばせ、うつつの瞳。闇に消ゆるは宵烏」
大門の方角からは喧騒。軒の下、通りは次第に人が賑わい始める。上等の仙台袴の男や、流行りのつぶし島田に結った娘達が擦れ違う。天神はそれに目もくれず、ただ窓の外に広がる薄青の空を眺めていた。
白い煙と溜め息と歌が空に溶けていく。細い糸を紡ぐように、一人の客が好きだと言った歌を口ずさむ。
「からの足枷、まほろの腕(かいな)。夢見し宴の捨篝――なんて、なぁ」
その表情にぼんやりとした微笑みが滲んだ。
彼女は何を見ているのだろう。天上を仰ぎながら心がそこに無いことは、何か物憂げな色を浮かべる瞳が物語っていた。
諦めたように息を吐くその傍ら、ふいに側を通り掛かった影があった。瓦屋根の上を、転がり落ちもせずに歩いてきた小さなもの。
「おや、お前も独りなの」
天神が声をかけたのは、灰色にくすんだ猫だった。毛並みは悪いが、やせ細っているというほどではない。
おそらく野良だろう。彼女の所在を知ってか知らずか、格子のすぐ側で丸くなって毛繕いを始める。
女はそれを暫く眺めていた。
「なぁんて。うちも、猫やったら良かったのに」
それから、ふっと笑った。ゆらり紫煙が混じる。
「猫やったら、こないな思いせぇへんでも良かったのに」
猫は振り向きもしなかった。ただ少しだけ顔をあげて、小さくにゃあと鳴いた。
時間だけが過ぎた。猫は自らの背を熱心に舐め、天神は煙管をくゆらせた。
やがて襖が開いて、その向こうで可愛らしい禿(かむろ)が頭を垂れる。
「お客はんどす、姐さん」
「はぁい」
振り向いた顔には、完全な笑顔。
煙管を置いて、ゆっくりと立ち上がる。
「虚の足枷、幻の腕――」
その間も唇からこぼれる夢結の小唄。禿を従え部屋を出ようと、足を踏み出す、最中。
ふいに胸の奥で、懐かしい声を聞いた。
『一緒になろう』
天神は格子の向こうを振り仰いだ。
一刹那の後、すいと目を細める。
「嘘吐きな人」
時代が変わろうとしていた、動乱の浮世。
それが嘘ではないと知りながら、
少なくとも、相手にとってはまごうことなき本心だったと知りながら。
女は呟くしか出来なかった。
過ぎるのは、きらめく白刃。
その時にどこかで散ったであろう、真赤な椿。
そして二度と逢うことの無い、男の面影。
補足:『夢結小唄』
「はい!」
季節の変わり目は、門番の仕事も多くなる。
北へと帰る冬たちを送り出し、冬の鳥達を放す。ジェイドも門番の一人として、そんな仕事に一日中追われていた。
その日も、冬たちの送出が行われた。彼は門の前に立ち、宮殿からやって来る冬の司者たちを出迎えた。
「今年もお疲れ様でした」
そう言って門を開ける。ぞろぞろと、冬色の髪と銀の瞳をした者達が門をくぐって行く。
しかしその中の一人、真っ白のマフラーを巻いた男性だけが、門の前で立ち止まって動かない。
「……」
彼は雲の隙間から地上を見ていた。その瞳に、寂しさのようなものが混じっているように見えたのは、ジェイドの気のせいだろうか。
声をかけようか迷っていると、男性の前にいた銀の髪の女性が振り返る。そして、彼を呼んだ。
「イヴェール?」
「あぁ、いや…何でもない」
男性は我に返ったように顔を上げた。
そしてそのまま、何事も無かったかのように門をくぐっていってしまった。
今のは何だろうと考える暇もなく、ジェイドは再び鳥の承認に取り掛かった。
渡り鳥を全て放し終わる頃。ジェイドは、門の側に立ってこちらの様子を伺う少女が居ることに気がついた。
「君はまだ休暇だろう?」
「だから来たのよ。私の鳥は元気にしている?」
呆れたように声をかけると、少し強気そうな返答。
レースがあしらわれた、紺色のワンピース姿。
カナリア色の瞳に青空色の髪。
透けるような薄い青、きらきらと輝く晴れ空の色だった。
仕事の合間に休憩がてら、雲の上に腰を下ろす。
すると少女も、少しうろうろ歩いた挙句、ジェイドの隣に座った。
「元気だよ。ちゃんと空に連れて行ってあげているかい? たまには空を羽ばたかせてあげないと、飛べなくなってしまうよ」
「大丈夫よ。ご心配なく」
ジェイドは次第に溶けて消え行く雪を眺めて、ふと溜め息を吐いた。
その息はまだ白い。
「昔は良く遊びに来てくれていたのに」
「仕方ないでしょう? 一人前の司者は休暇以外、非常時でもない限り仕事から離れられないの。…だいいち、あなたといると騒がしくて」
まだ冷たさを纏う空の風が、少女の空色の髪をゆらしている。
ジェイドは、今やすっかり一人前になった彼女の様子を見て、それから遠くを流れる雲に視線を移した。
それはまるで、人間が遠い昔を思い起こす作業に似ていた。
「あの頃は僕の後ろをついて回って…素直で可愛かったなぁ。なのに今はすっかりハルのように…」
「幼い頃の話を引っ張り出して来ないで」
少し困ったように眉根を寄せる少女。
ジェイドは、気分を害したらしい彼女ににっこりと微笑んだ。
「勿論、今でも可愛いけどね。可愛いくて綺麗になったよ」
「な…っ、ジェイドっ!!」
弾かれたように立ち上がった彼女を見上げ、にこにこと笑いながら、わざと首を傾げる。
理由がわからない、という振りをして、彼女を呼び止める。
「どうしたんだい? カナリア」
「帰るの。あなたといると話が進まないんだもの!」
カナリアは一瞬だけ振り返って、恨めしそうな視線を残して歩いていってしまった。
そんな様子を見て、ますます微笑む。
最近のカナリアは、少しあんなことを言うとすぐムキになって面白い。その様子を見ているのが、彼は好きだった。
きっとこんなことを言うと益々怒らせるだけだから、口にはしない。
そして、すっかり彼女が見えなくなった頃、誰に言うでもなく呟いた。
「まったく。すっかりハルに似たな」
あんなに幼かった少女は、『兄』の影響を強く受けて育っている。それが彼には嬉しくもあった。
「彼に似て、しっかりした司者になった」
温かい陽射しが、雲の上を照らす。
「あぁ。ついに春だね」
ジェイドはひとり立ち上がって、雲の切れ間から覗く太陽を見た。
うららかな陽気を纏った風は、あっという間に優しさを帯びた。
「新しい、命の生まれる季節だ」
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「お前。自分のした事を分かっているのか」
どこまでも冷ややかな声で、ハルは言った。
感情の籠もらない、氷よりも頑なな声。
深い深い奥に、憤りを秘めた叫びのような。
「お前が鳥を一羽助けた所為で、もう少しでカナリアが消える所だったんだ」
「分かっているよ」
抑揚のない声が答えた。
ジェイドの声だと理解するまで、カナリアには時間がかかった。
普段の彼には似合わない、静かな声。
「分かっている。だからこれは、僕の責任だ」
「当たり前だ!」
「やめて!」
堪らずに叫ぶ少女。
二人が言い争うのを、しかも、自分の引き起こした事故のために喧嘩することが耐えられなかったのだ。
どうしてこうなったのか。どうして、彼達が仲を違うのか。
「いいんだよ、カナリア」
涙ぐむカナリアを見て、彼はやっといつもの温かな微笑みを浮かべた。
「僕が、深く考えもせずキミに鳥を任せてしまったのが悪かったんだ」
「でも…」
語りかける声は、苦しそうで、切なそうで。
それよりも強く、曲げることの出来ない意志に溢れていた。
「僕は『門番』だ。空の入り口を担う者。鳥の管理も、僕の仕事だ。手を離してはいけなかったんだ」
それから、彼を叩いた本人を見つめる。
ハルは何も言わず、ただ彼を睨んでいた。
「でもね、ハル。鳥を助けたことが間違いだったとは、思っていない。空を飛べなくなることは、何の咎だろう? この鳥は咎を受ける必要が無い。何の罪も無い筈だから」
かつて無いほど、彼は真剣で。
ああ、そうか。
カナリアは理解する。
彼は、自分の仕事に誇りを持っている。
ジェイドだけじゃない。ハルも、スオウも、皆。
誰が起こした失敗でも、責任は仕事を請け負う自分に帰ってくるのだ。
全ては、自分の元に。
「ごめんね、カナリア」
今にも泣き出しそうな彼女を、ジェイドは強く抱きしめた。
自身の咎を詫びるように。
「僕が鳥を任せた所為で、危ない目にあわせて、ごめんね」
違う、
カナリアはそう叫びたかった。けれど、言葉にならない。
ただ、ごめんなさい、と。
ごめんなさい、ごめんなさい。
ぽろぽろと繰り返すことしか、出来なかった。
その時、
「いいのよ、ジェイド」
優しげな女性の声が、その空気を震わせた。
いつの間に来たのだろう。
ジェイドの振り返ったその場所に、蓬色の髪をした女性が佇んでいた。
「プリマヴェーラ!」
驚いたように、ハルがその名を呼んだ。
足元につくほどにゆらめく長い髪、温かさと、気品溢れる笑顔。
誰の説明も必要無かった。目にしただけで理解する。それ以前に、知らない筈がなかった。
プリマヴェーラ。彼女こそが、『春』。この空に於いて、春を、春の司者を統括する存在。
ハルから鳥を預かったプリマヴェーラは、ふと微笑み返した。そして、ジェイドの傍らで泣いたままの少女のもとへと歩み寄っていく。
「ねぇ、カナリア。この鳥は、貴女に差し上げましょうね」
春見習いの少女の頭を撫でながら、優しく微笑む。
カナリアもまた驚いて、彼女を見上げた。
「この瞬間からこの子は貴女の眷属。この子がいなければ、貴女は天空を自由に行き来出来ない」
それはまさに太陽のような笑みだった。
ただ向けられるだけで、心の中からじわりと温かくなっていくような。
「カナリアが正式な司者になるには早いけれど、どちらにせよ、将来『鳥』は必要になるのだしね」
「しかし、プリマヴェーラ」
「ハル。これはもう、私が決めたのよ」
困ったように口を挟むハルを、彼女はふわりと諌めた。
カナリアは皆に見つめられて、そして少し悩んだ挙句、力強く頷く。
「…はい」
そして『春』は、腕に抱いたばかりの鳥を少女に渡した。小さな生命は、柔らかく、そして温かかった。
カナリアの腕に収まったその鳥が、嬉しそうにバタバタと羽ばたいた。
白くて、小さな。そう、地上に住む者達が『ハト』と呼ぶ鳥。
それは平和の象徴。
「大切にしなさい。この子が再び空を飛べるように」