むせ返るような芳香、甘い蜜。蝶のような優雅さで。 そのカラダに鋭い棘を隠して。
はじめに
ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
2008.5.6 Asato.S
建物の陰で闇が歪んで、瞬く間に広がった。
重くねっとりした、虚ろな影。それはまるで、ヒトの心そのもののように揺れていた。
闇。人を蝕むもの。
心を喰って存(ながら)えるもの。
僕の目の前にはひとりの少女がいた。
線の細い、太陽の下なら何処にでも馴染める風貌。闇に釣り合わない儚げな存在。瞳だけは前を見据えていて、そのくせ目の前のものは見ていないようにも思えた。
華奢な右手には日本刀。
それひとつで、彼女の存在は強く有色化されていた。
こうして後姿を見るのは何度目になるだろう。
幽かな月光と、強い紅を浴びた彼女は美しかった。
自らの手で生み出した紅。人を斬ると血が溢れるように、闇を斬れば禍々しい色の光が流れる。人のそれより透明で、そして穢れたもの。色素の薄い瞳は、その色の妖艶さだけを上手く写し取っていた。
「お疲れ様」
彼女は何も言わなかった。ただ一瞥をよこして、所在無げに目を逸らした。瞳は僕を見ていない。代わりに僕の中に蠢くであろう闇を見る。
「少し時間がかかったね。怨みを狩るのは辛い?」
微笑のうちに尋ねる。無感情の上に僅かばかりの憂愁を乗せた横顔が、小さく答えた。
「…疲れているだけよ」
何も言われずとも分かっていた。
彼女は僕を信用していなくて、それでいて頼っていること。
――僕は彼女の生命を縮めている。
出逢ったばかりの彼女は、可哀想なくらい惨めだった。
自分を惨めな存在だと思っていることが酷く惨めだった。
涙を流しながら闇を切り刻む彼女そのものを、僕が刻んでしまえたらどれだけ愉快だろうと歯噛みした。
あれからどれだけ経っただろう。
それは刹那のようでもあり、悠久のようにも感じられた。
「久遠」
彼女が紅に染まった右手を差し出した。それを恭しく受ける。僕は棘を吸い出すがごとくその指に軽く唇をあてる。
紅光と共に彼女の生気を貰う。花が血を吸うようにして、命の破片を得る。こうすることで僕は少しずつ命を永らえ、彼女は命を縮める。
「顔色が悪いね」
「貴方の所為でしょう」
少女は最初から青ざめていた。
不安なのだろう。闇と戦い続けること、このまま闇の中で生き続けなければいけないことが。何も分からぬまま、夜が深くなることが。
『最後には、私の命をあげる』。
「何か、考えている?」
彼女は少し困ったように目を伏せた。理由無く心が揺れ動くことに戸惑っていた。
「…いいえ。何も」
そうして口を閉ざす。僕だけが次々と喋って。
何も言わなくとも、僕は全部知っている。記憶は彼女の魂の欠片とともに少しずつ体内に蓄積して、それと比例して彼女は少しずつ忘れていく。
彼女自身も気付いていないだろう。
否、忘れてしまったというのが正しいか。
これは契約という名の願い。
僕がここにいて、彼女がこうして生きることが彼女の望み。
『だから、最後まで“今の”私に従って』。
目の前の少女はあの頃とまるで違う。泣きそうだった表情は消え、代わりに無邪気な笑顔も見られなくなった。斬れば斬る程に鮮やかな色が薄れ、限りなく白に近づいていく。
それが哀しくも嬉しい。
何故なら、白を最も濁らせるのが黒だからだ。
君の求めている答えは、僕が全て持っている。
僕の正体も、彼女の未来も。戦いの結末も。
全て、全て、全て。
「また、闇が鳴いてる」
虚空を見上げ、平坦な言葉が吐き出される。
僕は耳を澄ました。人間には聞き取れない慟哭を聞く。薄く笑いながら、彼女の共鳴に同意する。
「次の場所に向かおうか、『唯』」
確かなのは名前。その文字が表すように唯一の持ち物。
その名を呼ぶ瞬間だけ、彼女の瞳には強い色が戻る。
本当の事は何も言わず、ただ彼女の傍に。
君が忘れてしまった賭も、僕は最後まで記憶に刻んでおこう。
たとえ契りで繋がった浅はかな糸でも、それがどれだけ不安定で刹那的な存在だとしても、僕にとっては確かな糸だから。
だから最期の瞬間、君が命を投げ出す瞬間。僕は今まで奪ってきたものの全てを返そう。
僕は充分生きた。君のお陰で充分永らえた。
きっと君は泣いて嫌がるだろうけど、君が目を背けたものは全て必要なものだから。
死を願った君には、それ以上の罰を。
それに気がつくまでは、君も僕も愚かなままでいい。
そして僕だけは、最後まで愚かなままで。
「久遠」
時折思い出したように僕の名を呼ぶ。
だから僕も同じ数だけ、彼女の名前を返す。
今はそれだけで充分だった。
重くねっとりした、虚ろな影。それはまるで、ヒトの心そのもののように揺れていた。
闇。人を蝕むもの。
心を喰って存(ながら)えるもの。
僕の目の前にはひとりの少女がいた。
線の細い、太陽の下なら何処にでも馴染める風貌。闇に釣り合わない儚げな存在。瞳だけは前を見据えていて、そのくせ目の前のものは見ていないようにも思えた。
華奢な右手には日本刀。
それひとつで、彼女の存在は強く有色化されていた。
こうして後姿を見るのは何度目になるだろう。
幽かな月光と、強い紅を浴びた彼女は美しかった。
自らの手で生み出した紅。人を斬ると血が溢れるように、闇を斬れば禍々しい色の光が流れる。人のそれより透明で、そして穢れたもの。色素の薄い瞳は、その色の妖艶さだけを上手く写し取っていた。
「お疲れ様」
彼女は何も言わなかった。ただ一瞥をよこして、所在無げに目を逸らした。瞳は僕を見ていない。代わりに僕の中に蠢くであろう闇を見る。
「少し時間がかかったね。怨みを狩るのは辛い?」
微笑のうちに尋ねる。無感情の上に僅かばかりの憂愁を乗せた横顔が、小さく答えた。
「…疲れているだけよ」
何も言われずとも分かっていた。
彼女は僕を信用していなくて、それでいて頼っていること。
――僕は彼女の生命を縮めている。
出逢ったばかりの彼女は、可哀想なくらい惨めだった。
自分を惨めな存在だと思っていることが酷く惨めだった。
涙を流しながら闇を切り刻む彼女そのものを、僕が刻んでしまえたらどれだけ愉快だろうと歯噛みした。
あれからどれだけ経っただろう。
それは刹那のようでもあり、悠久のようにも感じられた。
「久遠」
彼女が紅に染まった右手を差し出した。それを恭しく受ける。僕は棘を吸い出すがごとくその指に軽く唇をあてる。
紅光と共に彼女の生気を貰う。花が血を吸うようにして、命の破片を得る。こうすることで僕は少しずつ命を永らえ、彼女は命を縮める。
「顔色が悪いね」
「貴方の所為でしょう」
少女は最初から青ざめていた。
不安なのだろう。闇と戦い続けること、このまま闇の中で生き続けなければいけないことが。何も分からぬまま、夜が深くなることが。
『最後には、私の命をあげる』。
「何か、考えている?」
彼女は少し困ったように目を伏せた。理由無く心が揺れ動くことに戸惑っていた。
「…いいえ。何も」
そうして口を閉ざす。僕だけが次々と喋って。
何も言わなくとも、僕は全部知っている。記憶は彼女の魂の欠片とともに少しずつ体内に蓄積して、それと比例して彼女は少しずつ忘れていく。
彼女自身も気付いていないだろう。
否、忘れてしまったというのが正しいか。
これは契約という名の願い。
僕がここにいて、彼女がこうして生きることが彼女の望み。
『だから、最後まで“今の”私に従って』。
目の前の少女はあの頃とまるで違う。泣きそうだった表情は消え、代わりに無邪気な笑顔も見られなくなった。斬れば斬る程に鮮やかな色が薄れ、限りなく白に近づいていく。
それが哀しくも嬉しい。
何故なら、白を最も濁らせるのが黒だからだ。
君の求めている答えは、僕が全て持っている。
僕の正体も、彼女の未来も。戦いの結末も。
全て、全て、全て。
「また、闇が鳴いてる」
虚空を見上げ、平坦な言葉が吐き出される。
僕は耳を澄ました。人間には聞き取れない慟哭を聞く。薄く笑いながら、彼女の共鳴に同意する。
「次の場所に向かおうか、『唯』」
確かなのは名前。その文字が表すように唯一の持ち物。
その名を呼ぶ瞬間だけ、彼女の瞳には強い色が戻る。
本当の事は何も言わず、ただ彼女の傍に。
君が忘れてしまった賭も、僕は最後まで記憶に刻んでおこう。
たとえ契りで繋がった浅はかな糸でも、それがどれだけ不安定で刹那的な存在だとしても、僕にとっては確かな糸だから。
だから最期の瞬間、君が命を投げ出す瞬間。僕は今まで奪ってきたものの全てを返そう。
僕は充分生きた。君のお陰で充分永らえた。
きっと君は泣いて嫌がるだろうけど、君が目を背けたものは全て必要なものだから。
死を願った君には、それ以上の罰を。
それに気がつくまでは、君も僕も愚かなままでいい。
そして僕だけは、最後まで愚かなままで。
「久遠」
時折思い出したように僕の名を呼ぶ。
だから僕も同じ数だけ、彼女の名前を返す。
今はそれだけで充分だった。
END.
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私の記憶は、振り下ろされた一太刀から始まる。
手に握られた白刃。
対峙する陰影の化物。
刹那、闇が途切れた。私の刃が空を裂く。
血の代わりに溢れる、真紅の光。
闇の魔物は光によって内側から弾け、溶ける様に消えた。
振り返る。
そして呼ばれたのは与えられた第二の名前。
「唯」
私の本当の名前は知らない。憶えていない。ただ、この名前が『本物』でないことだけは本能が理解していた。
「今日もお疲れ様。相変わらず見事なお手並みだね」
「…どうせ、すぐに蘇るでしょう」
私は感情もなく答える。彼はいつものように肩をすくめて性悪く笑う。
長い髪を緩く結んだ男。
黒いサングラスを外すと、ヘテロクロミアが暗闇に浮かび上がる。
「久遠」
その碧い右目と名前。それ以外の、彼の存在証明を私は知らない。
記憶は振り下ろされた一太刀から始まる。
今のように、闇色の中に瞬く真白い一閃。自分の手に握られた白い白い煌き。
その記憶が本当に私の始まりなのかどうか、知る術はどこにも存在しない。
ぼんやりと霞の中にいるような。辛うじて過ぎる、セーラー服に身を包んで太陽の下を歩いた記憶も、森の奥で鷺を追いかけた記憶も、結局はただの幻惑かもしれない。
世界は知らないことばかりだ。その無数のものに埋もれて、私個人さえも分からないことが些細なものに思える。
私が今、確かに得られるその現実は、
影に歪む夜の渾沌と、傍らで微笑む白い男と、
そして、この手に携えた一振りの日本刀。
全ては闇と光。闇の中で光が生まれ、光の中で闇が息を吹き返す。
その秩序を乱してしまわぬように、私は闇の中で光を振るう。
ゆえにある者は私を天使と呼び、ある者は私を死神と畏れる。
私と同じで、その正体を知らないまま、一方的に空想を築き上げる。
闇は魔物だ。夜に蠢くものは闇。
人の精神(ココロ)を喰むのが魔物。
ではその闇を葬る私は何者なのだろう。
「じゃあ戻ろうか。唯」
『ユイ』。それが今の自分を表す記号。
時折彼が皮肉を込めて呼ぶ通り名ではなく。
誰かが授けてくれた、私が私であり続けるための免罪符。
刀を鞘に戻した。
またどこかで闇が啼いた。
彼が頷く前に、私が動く。
ころころと鳴るのは、柄に下げた魔除けの鈴の音。
「まだ、夜は長いのよ」
夜に蠢くものは闇。
私自身が闇でないと、一体誰が証明してくれるのだろう。
手に握られた白刃。
対峙する陰影の化物。
刹那、闇が途切れた。私の刃が空を裂く。
血の代わりに溢れる、真紅の光。
闇の魔物は光によって内側から弾け、溶ける様に消えた。
振り返る。
そして呼ばれたのは与えられた第二の名前。
「唯」
私の本当の名前は知らない。憶えていない。ただ、この名前が『本物』でないことだけは本能が理解していた。
「今日もお疲れ様。相変わらず見事なお手並みだね」
「…どうせ、すぐに蘇るでしょう」
私は感情もなく答える。彼はいつものように肩をすくめて性悪く笑う。
長い髪を緩く結んだ男。
黒いサングラスを外すと、ヘテロクロミアが暗闇に浮かび上がる。
「久遠」
その碧い右目と名前。それ以外の、彼の存在証明を私は知らない。
記憶は振り下ろされた一太刀から始まる。
今のように、闇色の中に瞬く真白い一閃。自分の手に握られた白い白い煌き。
その記憶が本当に私の始まりなのかどうか、知る術はどこにも存在しない。
ぼんやりと霞の中にいるような。辛うじて過ぎる、セーラー服に身を包んで太陽の下を歩いた記憶も、森の奥で鷺を追いかけた記憶も、結局はただの幻惑かもしれない。
世界は知らないことばかりだ。その無数のものに埋もれて、私個人さえも分からないことが些細なものに思える。
私が今、確かに得られるその現実は、
影に歪む夜の渾沌と、傍らで微笑む白い男と、
そして、この手に携えた一振りの日本刀。
全ては闇と光。闇の中で光が生まれ、光の中で闇が息を吹き返す。
その秩序を乱してしまわぬように、私は闇の中で光を振るう。
ゆえにある者は私を天使と呼び、ある者は私を死神と畏れる。
私と同じで、その正体を知らないまま、一方的に空想を築き上げる。
闇は魔物だ。夜に蠢くものは闇。
人の精神(ココロ)を喰むのが魔物。
ではその闇を葬る私は何者なのだろう。
「じゃあ戻ろうか。唯」
『ユイ』。それが今の自分を表す記号。
時折彼が皮肉を込めて呼ぶ通り名ではなく。
誰かが授けてくれた、私が私であり続けるための免罪符。
刀を鞘に戻した。
またどこかで闇が啼いた。
彼が頷く前に、私が動く。
ころころと鳴るのは、柄に下げた魔除けの鈴の音。
「まだ、夜は長いのよ」
夜に蠢くものは闇。
私自身が闇でないと、一体誰が証明してくれるのだろう。
END.
「うあー、寒っ」
トワちゃんが身震いすると、白い息が空中に広がった。
しきりに手を擦り合わせながら、不思議そうに私を見る。
「あんたはよくマフラーしなくて済むね」
「首は平気だもん。手も大丈夫だし」
微笑むと、あたしはダメ、と彼女が首を振る。
「暑いのも嫌だけど、寒いのはもっとダメ。このままじゃ冬眠しちゃうって」
手も冷え性だしさ、と、からから笑う。
空はどんより曇っていた。
今にも降り出しそうな空模様。もしかしたら、雪ぐらい降るかもしれない。
「じゃ、悠紀は寒いの全然大丈夫なんだ?」
名前もユキだしさぁ、と冗談も付け加える。余裕あるなぁ。
「そんなことないよ。苦手なとこ、あるし」
溜め息のように、大きく息を吐く。真っ白な生きる証が、空に溶けて消えた。
駅前通りまでやってくると、彼女は私とは逆方向の信号に向かった。
「じゃあ、あたしバイトだから。このまま行くね」
「うん、また明日」
「風邪引くなよー?」
笑いながら、片手を挙げて去っていく。
神崎遠子は今日も元気だった。
いったい、どっちが本当に冬に強いのか。
残された私は、とぼとぼ家路につく。
冷たい冷たい、風が吹いた。
口を固く結び直した。ぴり、と唇に痛みが走る。
ああ、またやっちゃった。
口だけは、だめなんだ。カサカサになってしまって、すぐ血が滲む。痛い。
息をしたくない。喋りたくない。口を、開けたくなくなる。
冷たい空気を吸おうとすると、喉が詰まる。身体の中から冷えていって、息をすることさえ止めようかと思う程に寒い。体は鉛が押し込まれたように重くて。
この唇と同様にささくれて行くのは、心。
寒くなるとそう。
他愛ない話で笑えない。感情が消える。表情が薄らぐ。受け答えすることが、他人と関わることが億劫で。
だからいつも、必死になって喋る。言葉を捜して、沈黙を埋めようと。
でもいつも途中で諦めてしまうの。
だって、それは凍て付くような冬の気温だから。
けれど。彼女と一緒の時は別。
トワちゃんは太陽で、私は冬の木。いつだって私はあの子から温かさを貰う。
そうすると、こんな凍える季節でも、もう少しだけ頑張れる気がした。
私はポケットの中を探った。
おかしいな。いつも入れているあれが、今日は入っていない。
どこかに置き忘れたかな。それとも、落としてしまったのだろうか。どうしていつもなくしちゃうんだろう?
だから今日は、コンビニに寄り道。
自動ドアの向こうの、ふわりと温かいその場所で、
買ったばかりのリップエッセンス。
グロスにもなるという程のとろとろしたその液体。これなら、きっと裂けた唇を守ってくれる。
キャップをあけると、ほんのりグレープフルーツの香りがした。
まるでトワちゃんみたいだった。
唇にあててするりとなぞる。薄く伸ばして、厚く重ねて。
途端に凍て付いた鉛が消えるのだ。
「これで、よし」
うん。寒いけど、もう少しだけ頑張ろう。
トワちゃんが身震いすると、白い息が空中に広がった。
しきりに手を擦り合わせながら、不思議そうに私を見る。
「あんたはよくマフラーしなくて済むね」
「首は平気だもん。手も大丈夫だし」
微笑むと、あたしはダメ、と彼女が首を振る。
「暑いのも嫌だけど、寒いのはもっとダメ。このままじゃ冬眠しちゃうって」
手も冷え性だしさ、と、からから笑う。
空はどんより曇っていた。
今にも降り出しそうな空模様。もしかしたら、雪ぐらい降るかもしれない。
「じゃ、悠紀は寒いの全然大丈夫なんだ?」
名前もユキだしさぁ、と冗談も付け加える。余裕あるなぁ。
「そんなことないよ。苦手なとこ、あるし」
溜め息のように、大きく息を吐く。真っ白な生きる証が、空に溶けて消えた。
駅前通りまでやってくると、彼女は私とは逆方向の信号に向かった。
「じゃあ、あたしバイトだから。このまま行くね」
「うん、また明日」
「風邪引くなよー?」
笑いながら、片手を挙げて去っていく。
神崎遠子は今日も元気だった。
いったい、どっちが本当に冬に強いのか。
残された私は、とぼとぼ家路につく。
冷たい冷たい、風が吹いた。
口を固く結び直した。ぴり、と唇に痛みが走る。
ああ、またやっちゃった。
口だけは、だめなんだ。カサカサになってしまって、すぐ血が滲む。痛い。
息をしたくない。喋りたくない。口を、開けたくなくなる。
冷たい空気を吸おうとすると、喉が詰まる。身体の中から冷えていって、息をすることさえ止めようかと思う程に寒い。体は鉛が押し込まれたように重くて。
この唇と同様にささくれて行くのは、心。
寒くなるとそう。
他愛ない話で笑えない。感情が消える。表情が薄らぐ。受け答えすることが、他人と関わることが億劫で。
だからいつも、必死になって喋る。言葉を捜して、沈黙を埋めようと。
でもいつも途中で諦めてしまうの。
だって、それは凍て付くような冬の気温だから。
けれど。彼女と一緒の時は別。
トワちゃんは太陽で、私は冬の木。いつだって私はあの子から温かさを貰う。
そうすると、こんな凍える季節でも、もう少しだけ頑張れる気がした。
私はポケットの中を探った。
おかしいな。いつも入れているあれが、今日は入っていない。
どこかに置き忘れたかな。それとも、落としてしまったのだろうか。どうしていつもなくしちゃうんだろう?
だから今日は、コンビニに寄り道。
自動ドアの向こうの、ふわりと温かいその場所で、
買ったばかりのリップエッセンス。
グロスにもなるという程のとろとろしたその液体。これなら、きっと裂けた唇を守ってくれる。
キャップをあけると、ほんのりグレープフルーツの香りがした。
まるでトワちゃんみたいだった。
唇にあててするりとなぞる。薄く伸ばして、厚く重ねて。
途端に凍て付いた鉛が消えるのだ。
「これで、よし」
うん。寒いけど、もう少しだけ頑張ろう。
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冬に包まれる季節。
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