むせ返るような芳香、甘い蜜。蝶のような優雅さで。 そのカラダに鋭い棘を隠して。
はじめに
ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
2008.5.6 Asato.S
私が呆然としているうちに、紫は席を立った。
どうしようか迷った挙句、仕方なく彼女の後を追う。
「すみません。このフィナンシェ、エラブルとショコラ3つずつ、持ち帰りでっ」
彼がショーケースに並べている間を見計らって声をかける。
「かしこまりました」
桐島朔也は顔を上げ、にこやかに応対する。二種類のフィナンシェをテイクアウト用に包みながら、オーダーした紫の後ろ、控えめに立つ私に目を留めた。
そして、驚いたように話しかけてきた。
「あれ、もしかして…美乃ちゃん?」
私は困って、少しだけ後ずさった。けれど、目は離せなかった。
更に驚いたのは紫だったろう。振り返って、私と桐島朔也とを見比べる。
「朔也、兄さん…」
やっぱり。
間違いなかった。あの、朔也兄さんだ。見間違えるはずがない。
「やっぱりそうだ。天城美乃ちゃん」
朔也兄さんは、私が『知っている美乃』だと確認すると、途端に人懐こい笑みを浮かべた。何年も前の、高校生だった彼の面影がそこにあった。
「どうして?だって、東京の製菓専門学校を出た後は、向こうで働いていたんでしょう?」
ああそうか、製菓専門学校。今の今まで、その意味を理解していなかった。
朔也兄さんはパティシェになるために上京したんだ。
「つい先週戻ってきたんだ。これからはここが僕の職場」
ふと気づくと、紫がこちらに目で合図を送っている。
なに?どうして知っているの?知り合い?と、言葉を交わさなくとも紫が何を言いたいのか分かった。
そんな二人のやりとりをよそに、朔也兄さんはお喋りを続ける。
「それにしても驚いたな。そうか…もう高校生なんだね。綺麗になっていて分からなかったよ」
なんとなく照れくさくて、ふと顔をそらす。その一瞬を、紫は見逃さなかった。振り向いて朔也兄さんの目を捉え、にこりと微笑む。
こんにちは初めまして、と控えめな自己主張。
「美乃ちゃんのお友達?」
「はい!谷竹紫です」
笑顔でしっかり自己紹介までしてしまう紫。さすが、私とは比べ物にならない程の場数を踏んでいるだけはある。
結局私もフィナンシェを買って、その日は『ソレイユ』を後にした。
「またいつでもおいで」
会計の後。店の外まで見送ってくれた朔也兄さんに手を振って別れる。
そして、紫と二人駅前に向かって歩き出した。
「どーいうこと?」
彼が見えなくなった途端、紫が私の腕を掴んだ。ぐらぐらと揺すりながら、事のあらましを詰問する。
「だだだ、だから、ごめんって」
言いながら、どうして謝ってるのか分からなくなる。
「というか、顔見るまで知らなかったし」
そう、黙っていた訳ではないのだ。実際のところ、私も驚いたのだから。なんという名前の人なのか、先に聞いておけば話は別だったのかもしれない。
「まぁ、そうよねぇ。そんな感じだったわよね」
すると紫も平静を取り戻したらしく、ぎっちり握っていた腕は放してくれた。それから、改めて私の手を握る。
「紹、介。してよね」
彼女の澄んだ瞳の奥には、冗談でも嫌だとは言えない何かが漂っていた。
「え?朔也くんが?」
家に帰ってから、私は母親に尋ねてみることにした。ご近所付き合いの手前、母なら先に知っていたかもしれないから。
しかし彼女も、驚いたように目を瞬かせるだけ。
「うんそうなの。駅前近くのね、『ソレイユ』ってお店で働いてるの。お母さん何か聞いてない?」
「初耳よ………あ、待って」
母はフィナンシェを持ったまま、じっと天井を見つめた。
それから数秒かけて、やっと首を縦に振る。
「そういえば、聞いてたかも」
信じられない。またこんな大事なことを忘れていたらしい。
物忘れは母の特権だ。
バイトで疲れた体を引きずり、部屋に戻った。
どさりとベッドに倒れこんで、夕方のことを思い出す。
昼間のうち太陽に晒していた布団は、春の匂いがした。
「そっか…戻って来てたんだ」
何年ぶりかな。私がまだ小学生の頃だから、6、7年くらいかな。
昔よりずっと大人びた笑顔が、脳裏に浮かぶ。相変わらず肌は白かったけれど、腕は少し逞しくなっていた気がする。
「体力使うお仕事なんだろうなぁ…」
私の初恋の人。憧れの人。尊敬するお兄さん。
小さい頃はよく遊んでもらって、彼が高校卒業後、東京に行ってしまうまでは勉強だって教わった。
美乃ちゃん。そう、呼んでくれた。私の事、憶えていてくれたんだ。
『綺麗になったね』
そう言って、懐かしそうに嬉しそうに、微笑んでくれた。
あぁ…やっぱり格好良いな。
横になったまま、私はゆっくりと目を閉じた。
どうしようか迷った挙句、仕方なく彼女の後を追う。
「すみません。このフィナンシェ、エラブルとショコラ3つずつ、持ち帰りでっ」
彼がショーケースに並べている間を見計らって声をかける。
「かしこまりました」
桐島朔也は顔を上げ、にこやかに応対する。二種類のフィナンシェをテイクアウト用に包みながら、オーダーした紫の後ろ、控えめに立つ私に目を留めた。
そして、驚いたように話しかけてきた。
「あれ、もしかして…美乃ちゃん?」
私は困って、少しだけ後ずさった。けれど、目は離せなかった。
更に驚いたのは紫だったろう。振り返って、私と桐島朔也とを見比べる。
「朔也、兄さん…」
やっぱり。
間違いなかった。あの、朔也兄さんだ。見間違えるはずがない。
「やっぱりそうだ。天城美乃ちゃん」
朔也兄さんは、私が『知っている美乃』だと確認すると、途端に人懐こい笑みを浮かべた。何年も前の、高校生だった彼の面影がそこにあった。
「どうして?だって、東京の製菓専門学校を出た後は、向こうで働いていたんでしょう?」
ああそうか、製菓専門学校。今の今まで、その意味を理解していなかった。
朔也兄さんはパティシェになるために上京したんだ。
「つい先週戻ってきたんだ。これからはここが僕の職場」
ふと気づくと、紫がこちらに目で合図を送っている。
なに?どうして知っているの?知り合い?と、言葉を交わさなくとも紫が何を言いたいのか分かった。
そんな二人のやりとりをよそに、朔也兄さんはお喋りを続ける。
「それにしても驚いたな。そうか…もう高校生なんだね。綺麗になっていて分からなかったよ」
なんとなく照れくさくて、ふと顔をそらす。その一瞬を、紫は見逃さなかった。振り向いて朔也兄さんの目を捉え、にこりと微笑む。
こんにちは初めまして、と控えめな自己主張。
「美乃ちゃんのお友達?」
「はい!谷竹紫です」
笑顔でしっかり自己紹介までしてしまう紫。さすが、私とは比べ物にならない程の場数を踏んでいるだけはある。
結局私もフィナンシェを買って、その日は『ソレイユ』を後にした。
「またいつでもおいで」
会計の後。店の外まで見送ってくれた朔也兄さんに手を振って別れる。
そして、紫と二人駅前に向かって歩き出した。
「どーいうこと?」
彼が見えなくなった途端、紫が私の腕を掴んだ。ぐらぐらと揺すりながら、事のあらましを詰問する。
「だだだ、だから、ごめんって」
言いながら、どうして謝ってるのか分からなくなる。
「というか、顔見るまで知らなかったし」
そう、黙っていた訳ではないのだ。実際のところ、私も驚いたのだから。なんという名前の人なのか、先に聞いておけば話は別だったのかもしれない。
「まぁ、そうよねぇ。そんな感じだったわよね」
すると紫も平静を取り戻したらしく、ぎっちり握っていた腕は放してくれた。それから、改めて私の手を握る。
「紹、介。してよね」
彼女の澄んだ瞳の奥には、冗談でも嫌だとは言えない何かが漂っていた。
「え?朔也くんが?」
家に帰ってから、私は母親に尋ねてみることにした。ご近所付き合いの手前、母なら先に知っていたかもしれないから。
しかし彼女も、驚いたように目を瞬かせるだけ。
「うんそうなの。駅前近くのね、『ソレイユ』ってお店で働いてるの。お母さん何か聞いてない?」
「初耳よ………あ、待って」
母はフィナンシェを持ったまま、じっと天井を見つめた。
それから数秒かけて、やっと首を縦に振る。
「そういえば、聞いてたかも」
信じられない。またこんな大事なことを忘れていたらしい。
物忘れは母の特権だ。
バイトで疲れた体を引きずり、部屋に戻った。
どさりとベッドに倒れこんで、夕方のことを思い出す。
昼間のうち太陽に晒していた布団は、春の匂いがした。
「そっか…戻って来てたんだ」
何年ぶりかな。私がまだ小学生の頃だから、6、7年くらいかな。
昔よりずっと大人びた笑顔が、脳裏に浮かぶ。相変わらず肌は白かったけれど、腕は少し逞しくなっていた気がする。
「体力使うお仕事なんだろうなぁ…」
私の初恋の人。憧れの人。尊敬するお兄さん。
小さい頃はよく遊んでもらって、彼が高校卒業後、東京に行ってしまうまでは勉強だって教わった。
美乃ちゃん。そう、呼んでくれた。私の事、憶えていてくれたんだ。
『綺麗になったね』
そう言って、懐かしそうに嬉しそうに、微笑んでくれた。
あぁ…やっぱり格好良いな。
横になったまま、私はゆっくりと目を閉じた。
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ちらほら、花の蕾のほころんだ4月。
高校に続く上り坂も、桜の薄紅で彩られていた。
陽射しも温かい。授業さえなければ、こんな日に学校なんて行きたくないくらいに。
「春です」
友人・谷竹紫は、満面の笑顔で指を一本立てた。そして私に、『春といえば?』という質問を投げかける。彼女の少し赤い髪が、太陽に照らされて艶やかな光沢を纏っていた。
「恋の季節です」
そして考える隙も与えてくれないまま、ひとりで答えを提示する。
私は思わず笑った。紫にかかればきっと、夏だって秋だって恋の季節に決まってる。
「この前まで、世界史の橘が格好良いって言ってたじゃない」
私は昨年授業を習った、二十代後半の独身教師の顔を思い出しながら言った。しかし紫は顔をしかめながら、不服そうに首を振る。
「あの人はダメ。去年の期末点くれなかったんだもん。お陰で追試よ」
あれは失敗だったわ、と、ひとつ溜め息を漏らす。
柔らかな春風が、頭上の桜をちらちら舞わせていた。ああ、お花見の時期だ。
「紫は恋多き女だねぇ」
「美乃が無さすぎるだけなのよ」
髪についた花弁を取ってくれながら、私の恋模様の少なさを憂う。
私達はとても気の合う同士だけれど、恋愛に対する姿勢だけは真逆だ。常に恋人や想い人がいる紫と、どんな素敵な男性がいても「感じのいい人だなぁ」としか思わない私。
精神的に充分間に合ってる。勿論、いつも恋にきらきらしている紫を、凄いなぁと尊敬しているけれど。
「今度は誰?」
「『ソレイユ』のパティシエのお兄さん」
にこにこと笑う紫。
『ソレイユ』とは、聞いた事のある名前だった。確か、駅前近くにあるケーキ屋さん。
彼女の話によると、以前ケーキを買いに行った時、そのパティシエさんにヒトメボレしたのだという。
「というわけで。放課後、付き合ってくれるよね?」
突然、紫は私の手を掴んだ。真剣な目で私の顔をじっと覗き込む。
仕方無いなぁ、と苦笑しながら、半ば勢いに負けて頷く。惚れっぽいけれど彼女はいつだって真っ直ぐだ。
するとまた、ぱぁっと顔が明るくなった。
「頼りにしてるわよ、天城美乃さん」
今まで掴んでいた手を離し、ブレザーの肩をぽんと叩く。
桜の花弁がひらひらと舞って、今度は紫の頭についた。
フランス菓子店『ソレイユ』は、駅前通りから横道に一本入った、静かな場所にあった。
真っ白な壁に、大きな硝子窓。垣根伝いに鮮やかな花のプランター。入り口には金の文字で『soleil du sucre』。
店内に入った私達は、レジとショーケースの様子が伺える一角に座り紅茶セットを注文した。
アッサムのミルクティーをくるくるかき混ぜながら、私はレジに目をやった。カウンターの後ろに厨房に続く扉が見える。パティシェはそこから焼きたてのケーキを運んでくることがあるという。
「居ないね」
「おかしいわね…」
「さっき顔を出したのは女のパティシェさんだったし」
「女性のパティシエはパティシエール。パティシエは男性名詞よ」
厨房を凝視しつつミルフィーユにフォークを差し込んでいた紫が、ふとこちらに視線を向ける。
紫は意外にも知識が豊富だ。
それなのに勉強になると、途端に追試に追い込まれたりする。どうしてだろう。
「もう帰ろう?」
店内のからくり時計が5時を知らせた。3時過ぎから居たから、かれこれ2時間経とうとしている。外も次第に薄暗くなってきた。
「私、6時からバイトなんだけど…」
もう少しだけと、両手を合わせる紫。ケーキ代奢るから、と。
仕方ない、あと少しだけ付き合ってあげるか。
腕時計も確認しながら、ここからバイト先までどれくらいかかるか計算する。
私だって、人を好きになることくらいある。
好きだったお向かいの家のお兄さんが上京してしまってからは、ほとんどそんな気持ちを抱えたことはないけれど。
ここからなら20分で着くかな。
逆算しながら、もう冷めてしまったミルクティーを口に運んだ。
その時だった。
「美乃!来た来たっ!」
紫が出来る限りの小声で叫んだ。それを聞いて、ふと時計から顔をあげる。
見ると、焼きたてのフィナンシェを持って来た所だった。真っ白のコックコート。美味しそうなフィナンシェ。
しかしそれよりも。どこかで覚えのある、その顔立ち。黒い髪。
彼を見て、私は息を呑む。
嘘。あの人って…
向かいに座る紫が、弾んだ声で教えてくれた。
「あの人が私の恋のお相手、桐島朔也さん」
きりしまさくや。
それは昔大好きだった、お向かいのお兄さんの名前だった。
高校に続く上り坂も、桜の薄紅で彩られていた。
陽射しも温かい。授業さえなければ、こんな日に学校なんて行きたくないくらいに。
「春です」
友人・谷竹紫は、満面の笑顔で指を一本立てた。そして私に、『春といえば?』という質問を投げかける。彼女の少し赤い髪が、太陽に照らされて艶やかな光沢を纏っていた。
「恋の季節です」
そして考える隙も与えてくれないまま、ひとりで答えを提示する。
私は思わず笑った。紫にかかればきっと、夏だって秋だって恋の季節に決まってる。
「この前まで、世界史の橘が格好良いって言ってたじゃない」
私は昨年授業を習った、二十代後半の独身教師の顔を思い出しながら言った。しかし紫は顔をしかめながら、不服そうに首を振る。
「あの人はダメ。去年の期末点くれなかったんだもん。お陰で追試よ」
あれは失敗だったわ、と、ひとつ溜め息を漏らす。
柔らかな春風が、頭上の桜をちらちら舞わせていた。ああ、お花見の時期だ。
「紫は恋多き女だねぇ」
「美乃が無さすぎるだけなのよ」
髪についた花弁を取ってくれながら、私の恋模様の少なさを憂う。
私達はとても気の合う同士だけれど、恋愛に対する姿勢だけは真逆だ。常に恋人や想い人がいる紫と、どんな素敵な男性がいても「感じのいい人だなぁ」としか思わない私。
精神的に充分間に合ってる。勿論、いつも恋にきらきらしている紫を、凄いなぁと尊敬しているけれど。
「今度は誰?」
「『ソレイユ』のパティシエのお兄さん」
にこにこと笑う紫。
『ソレイユ』とは、聞いた事のある名前だった。確か、駅前近くにあるケーキ屋さん。
彼女の話によると、以前ケーキを買いに行った時、そのパティシエさんにヒトメボレしたのだという。
「というわけで。放課後、付き合ってくれるよね?」
突然、紫は私の手を掴んだ。真剣な目で私の顔をじっと覗き込む。
仕方無いなぁ、と苦笑しながら、半ば勢いに負けて頷く。惚れっぽいけれど彼女はいつだって真っ直ぐだ。
するとまた、ぱぁっと顔が明るくなった。
「頼りにしてるわよ、天城美乃さん」
今まで掴んでいた手を離し、ブレザーの肩をぽんと叩く。
桜の花弁がひらひらと舞って、今度は紫の頭についた。
フランス菓子店『ソレイユ』は、駅前通りから横道に一本入った、静かな場所にあった。
真っ白な壁に、大きな硝子窓。垣根伝いに鮮やかな花のプランター。入り口には金の文字で『soleil du sucre』。
店内に入った私達は、レジとショーケースの様子が伺える一角に座り紅茶セットを注文した。
アッサムのミルクティーをくるくるかき混ぜながら、私はレジに目をやった。カウンターの後ろに厨房に続く扉が見える。パティシェはそこから焼きたてのケーキを運んでくることがあるという。
「居ないね」
「おかしいわね…」
「さっき顔を出したのは女のパティシェさんだったし」
「女性のパティシエはパティシエール。パティシエは男性名詞よ」
厨房を凝視しつつミルフィーユにフォークを差し込んでいた紫が、ふとこちらに視線を向ける。
紫は意外にも知識が豊富だ。
それなのに勉強になると、途端に追試に追い込まれたりする。どうしてだろう。
「もう帰ろう?」
店内のからくり時計が5時を知らせた。3時過ぎから居たから、かれこれ2時間経とうとしている。外も次第に薄暗くなってきた。
「私、6時からバイトなんだけど…」
もう少しだけと、両手を合わせる紫。ケーキ代奢るから、と。
仕方ない、あと少しだけ付き合ってあげるか。
腕時計も確認しながら、ここからバイト先までどれくらいかかるか計算する。
私だって、人を好きになることくらいある。
好きだったお向かいの家のお兄さんが上京してしまってからは、ほとんどそんな気持ちを抱えたことはないけれど。
ここからなら20分で着くかな。
逆算しながら、もう冷めてしまったミルクティーを口に運んだ。
その時だった。
「美乃!来た来たっ!」
紫が出来る限りの小声で叫んだ。それを聞いて、ふと時計から顔をあげる。
見ると、焼きたてのフィナンシェを持って来た所だった。真っ白のコックコート。美味しそうなフィナンシェ。
しかしそれよりも。どこかで覚えのある、その顔立ち。黒い髪。
彼を見て、私は息を呑む。
嘘。あの人って…
向かいに座る紫が、弾んだ声で教えてくれた。
「あの人が私の恋のお相手、桐島朔也さん」
きりしまさくや。
それは昔大好きだった、お向かいのお兄さんの名前だった。
桜の下に立つのはもはや彼一人だけ。
そこに誰かが居た形跡さえも見当たらない。反対に、最初から誰も居なかったかの様に。
それでも春樹は、驚くことなく彼女の居た辺りを見つめていた。
ケーキをその場所に置く。
さっきまで、彼女の立っていた場所に。
暫くケーキに視線を注いでいると、まるで彼の目から遠ざけようと、その上を覆うように花片が散った。
春の好きな女性だった。
とりわけ桜が大好きで、桜が咲くたびにこの丘で花見をした。彼女の作ったケーキと、愛する人達に囲まれて。
優れた美人・精神美。
桜の花言葉通りの女性だったと聞いている。よくは覚えていない。いつも頭に浮かぶのは、写真の中で優しく微笑む、彼女。
もう声も覚えていなくて。
共に過ごせた時間は僅かだった。
けれども彼は、その存在を忘れることはなかった。だから彼女も、思い出の場所でずっと待っていた。
花陰で、桜色の日傘を差しながら。
チッ、チッ。
手の中で、時を刻む。
父から借りてきた彼女の形見。
彼女の時間は止まっていても、春樹自身の時間はまだ先が長い。
br />
丘を降りて、来た道を戻る。
手には銀色の懐中時計を握り締めて。
そろそろ、帰りの飛行機の時間が迫っている。
あまり店を開けられないから。
彼女と、彼女のケーキを愛した人が居たように、彼もまたたくさんの人に必要とされている。
「――ああ、間違えた」
丘をゆっくり下りながら、途中で振り返る。
彼が去るのを待っていたかのように、待ちくたびれたように雨が止む。
雲が切れた。
きらきらと春の陽が差し込んだ。
切り取られた空の中を、燕が舞った。
「そうか。また待たせることになるんだね」
申し訳なさそうに、それでもクスリと微笑んで。桜の木に向かって叫んだ。
もうその場所に、彼女は居ないけれど。
「今度は80年後にね。母さん」
そのときは、もっとたくさん話をしよう。
そこに誰かが居た形跡さえも見当たらない。反対に、最初から誰も居なかったかの様に。
それでも春樹は、驚くことなく彼女の居た辺りを見つめていた。
ケーキをその場所に置く。
さっきまで、彼女の立っていた場所に。
暫くケーキに視線を注いでいると、まるで彼の目から遠ざけようと、その上を覆うように花片が散った。
春の好きな女性だった。
とりわけ桜が大好きで、桜が咲くたびにこの丘で花見をした。彼女の作ったケーキと、愛する人達に囲まれて。
優れた美人・精神美。
桜の花言葉通りの女性だったと聞いている。よくは覚えていない。いつも頭に浮かぶのは、写真の中で優しく微笑む、彼女。
もう声も覚えていなくて。
共に過ごせた時間は僅かだった。
けれども彼は、その存在を忘れることはなかった。だから彼女も、思い出の場所でずっと待っていた。
花陰で、桜色の日傘を差しながら。
チッ、チッ。
手の中で、時を刻む。
父から借りてきた彼女の形見。
彼女の時間は止まっていても、春樹自身の時間はまだ先が長い。
br />
丘を降りて、来た道を戻る。
手には銀色の懐中時計を握り締めて。
そろそろ、帰りの飛行機の時間が迫っている。
あまり店を開けられないから。
彼女と、彼女のケーキを愛した人が居たように、彼もまたたくさんの人に必要とされている。
「――ああ、間違えた」
丘をゆっくり下りながら、途中で振り返る。
彼が去るのを待っていたかのように、待ちくたびれたように雨が止む。
雲が切れた。
きらきらと春の陽が差し込んだ。
切り取られた空の中を、燕が舞った。
「そうか。また待たせることになるんだね」
申し訳なさそうに、それでもクスリと微笑んで。桜の木に向かって叫んだ。
もうその場所に、彼女は居ないけれど。
「今度は80年後にね。母さん」
そのときは、もっとたくさん話をしよう。
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