ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
「ん?…あ、ごめん。なに?」
ふと気になることがあって、私は朔也兄さんを呼んでみた。一瞬の間の後に、慌てたように返事が返ってきた。
さっきからこうだ。たまに声をかけても上の空で、何故か黙ってしまう。
どうしたんだろう。何か、かしこまっているような。
朔也兄さんの様子がそうだと、私まで何やら緊張してしまう。私、何か変なこと言っただろうか。
「実は、さ」信号待ちをしていると、やっと彼が口を開いた。
「ずっと美乃ちゃんに言わなきゃいけないことがあったんだ」
そこでやっと、彼がそわそわしていた訳を察する。ずっとタイミングを計っていたらしい。
ふいに顔を見上げる。昔より顔が近い。ああそうか、私もそれなりに身長が伸びたから。
「本当はこの前、『ソレイユ』で会ったときに言おうと思ったんだけど、いつもはお友達も一緒だったからね」
夕方の交通量は多い。上り下りとひっきりなしに車が行き交う。通り過ぎる風圧で、歩道脇の茂みがざわりと揺れる。
何を言うんだろう。
もしかして、私の気持ちがバレてしまったとか?
だから、そういうのは迷惑、とか。
「あのね、美乃ちゃん。良く聞いて欲しいんだ」
けれど。もしかして、もしかすると。その逆ということは無いだろうか?
夕暮れの中にいても、朔也兄さんが照れているのが見て分かった。そして、思い切ったように口を開く。
そう、例えば。告白、とか。
「実は、僕……」
遠くで、車のクラクションが鳴った気がした。
「来月、結婚するんだ」
「…え」
頭が、真っ白になった。
言葉に詰まって、彼の台詞の意味をゆっくり飲み込む。兄さんは拍子抜けしたように微笑んだ。
「あれ。なんだかリアクション薄いなぁ。もしかして、美紀叔母さんから聞いてた?」
なんだぁ、とか言いながら思いきり照れる朔也兄さん。
ああ、今分かった。その表情の意味。
なんだ、そんなこと。いや、勿論とてもおめでたいことだけど。兄さんはそれを、いつ言おうかとドキドキしていたということである。
夢から覚めた気分だった。
私は停止していた脳を叩き起こし、言葉を発するように命令した。
「ううん。そんなの…は、は」
「初耳ですっ!」
突然背後から声。弾かれたように振り向く私と朔也兄さん。
すると、歩道の端の茂みから勢いよく、一人の少女が飛び出した。
「紫!?」
驚いたのは、私と朔也兄さんがほぼ同時だった。それくらい、彼女の登場は突飛だったのである。
今まで隠れていたのだろうか。紫は、驚愕と混乱の交じり合ったような、複雑な表情をしていた。肩から息を吸って吐いてを繰り返す。
一瞬の沈黙。
歩行者信号が、ちょうど青色に変わった。
帰宅すると、母に結婚を知らせる手紙が届いていたことを知らされた。そこには確かに、『結婚』の二文字が踊っていて、ご丁寧に披露宴には私まで招待されている。
兄さんによると、私にはどうしても自分の口から言いたかったのだという。
やっぱり初恋は実らないよなぁ、と、桜色の招待状をトントンと指で叩いた。
私よりショックだったのは、やはり紫だった。そういえば婚約をしてないか、なんて調べなかったしな。教室でぐたりと机に伏せる彼女を見ながら、そっと声をかけてみる。
「ジューンブライドだって」
「…うん」
「高校時代のクラスメイトだって」
「…うん」
「付き合って10年らしいよ?」
「……ふぅん」
つまりは、私が初恋をしていた頃には既に恋人がいたという計算になる。
紫は聞いているのかどうか分からない返事を機械的にした。
「桜、散るの早かったね」
ついに反応が無くなった。公言していただけにダメージが多そうである。
そうっとしておいてあげよう、と席を立ちかけた瞬間。勢い良くガバリと起き上がった。そして、私の肩を掴む。
「ねぇ美乃!?今日の午後、暇?」
「わわわ、何!?ひ、暇暇っ…!」
「じゃあお花見に行こう!」
揺さぶられながら、やっとの思いで紫の言葉を拾う。彼女の顔は真剣だった。というか、切迫していた。
「だって今年行ってないもんね?大丈夫、今からでも枝垂桜なら見れるから。どうせみんなソメイヨシノが桜だと思ってるのよ、今頃なら人も少ないわ!そうね何だったら今から行きましょうか?ああでも、夜桜も良いわよね。さすがに女の子二人の夜道は危ないかしら?!」
「ちょっとちょっと、紫!落ち着いてよ、ほらっ!」
興奮状態の紫を宥めるのは大変だった。突然騒ぎ始めた私達を見て、クラス中が呆然としている。
敗れた後の、唐突な切り替え。なんかそう、とても紫らしかった。
そして私は、彼女のそんなところも好きなのだ。
「分かったから、ね!とりあえず今は、全部授業を受けよう!」
窓の外。
鮮やかな青色の空には、柔らかな綿雲が広がっていた。
どこかでウグイスの声がする。
どうやら、春が終わるにはまだ早いらしい。
Back
私と紫の出会い。今日のような、温かすぎる陽射しの春の日。クラスが変わったばかりで、私は教室の隅で萎縮していた。
人見知りなのだ。1年生のときも、一年かけて仲良くなるのがやっと。けれどそんな顔なじみは誰一人いなかった。
『天城さん』
そんな私に、声をかけてくれた一人の少女がいた。
ちょっとびっくりするくらい美人の子。背は私より少し低いくらいで、瞳がぱっちりしている。日に透ける茶色の髪が綺麗だった。
『あなた、アマギヨシノっていうの?』
『う、うん。よく読めたね』
私はぎこちなく頷いた。驚いていたのだ。そんな可愛い子が声をかけてくれたことと、私の名前を間違わずに呼んでくれたのと。
だいたい『ヨシノ』とはなかなか読んでくれない。ミノちゃんと何度言われたことか。
『桜の名前なのね。私とおそろいね』
そう言って、彼女はにこりと笑った。何の話か分からなくて、瞬きをする。
『私、谷竹紫。ヤダケムラサキって桜の名前なの。だから、おそろい』
後日、彼女は図書館で『桜図鑑』を見せてくれた。
アマギヨシノ。ヤダケムラサキ。確かにどちらも、桜の品種だった。
私自身も知らなかった名前の符丁。
私の知らないことを知っている、不思議な少女。
初対面のあの瞬間から、大好きになった親友。
そうだ、親友。
うとうとしかけていた私は、慌てて顔を上げた。
そうだ。私は今、大好きな親友の恋を応援している最中だった。
どこまでも一直線で、見た目に似合わず押しの強い少女の。
ごめんね、紫。
私ちゃんと、終わりにするから。
店内のカラクリ時計が午後5時を示す。向日葵の花の形をした壁掛け時計が、ゆらゆら花弁を揺らして踊る。
そろそろ帰らないと。立ち上がったその時、ちょうど厨房から朔也兄さんが顔を出した。
なんてタイミングの悪い。
「あ、美乃ちゃん。今日はもう帰るの?」
私の心中も知らず、彼は相変わらずの微笑をこちらに向けた。
戸惑いつつも、彼に会計を頼んだ。お土産のオペラとパリジェンヌを買う。テイクアウト用の箱にも、オレンジ色の向日葵が描かれていた。
ああそうか、ソレイユ、か。太陽も向日葵も似ているもんね。ソレイユには『ヒマワリ』という意味がちゃんとあるらしい。
「このあとは真っ直ぐ帰るのかな」
母親から預かった千円札を手渡すと、ふいに彼が尋ねてきた。私はとっさに頷く。
すると彼は、よかった、だったら、と胸を撫で下ろした。
「実は今日、閉まるの早いんだ。僕はもうすぐ帰れるから、一緒に帰らない?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。は?と、間抜けにも聞き返してしまう。
じゃあ外で待ってて、と言い残し、彼は厨房に戻った。
ごめんね、紫。
私ちゃんと、終わりにするから。
そう誓ったのに、朔也兄さんは私に声をかける。
一方、バイトを終えた谷竹紫は、駅前通りを足早に歩いていた。
「まだ、ソレイユ開いてるかしら」
今日は確か、早く閉まってしまうはずだ。先週の土曜日に、桐島さんがそんなことを言っていたのを覚えている。
会えなくてもいいから、フィナンシェだけでも買えないかな。
そこまで考えて、今までとの矛盾に気がつく。おかしいな。あのお店には桐島さんに会いに行っていたはず。
ふいにくすりと笑う。そうだ、元々私はあのお店のプチガトーが好きで通っていたんだ。
それで、偶然桐島さんを見つけた。順番としては、ケーキのほうが先なのだ。
勿論、桐島さんが好きなのには変わらないんだけどね。
横断歩道が目に入った瞬間、信号の青色が点滅し始めた。間に合わないな、と仕方なく、歩く速度を落とす。
忙しなく行き交う車の群れを静かに待ちながら、向こうの歩道に見慣れた二人の顔を見つける。
「あれ…美乃と、桐島さん?」
二人は並んで、何か話しながら歩いていた。
こちらには…気づいていないようだった。
「日、長くなったね」
家までの道を並んで歩く。5時を回った街中はまだ明るかった。ビルの向こうに薄く夕焼けが見える。ちょっとだけ、幼い頃のことを思い出した。
「この間まで、5時なんていったら真っ暗だったのにね」
「もう5月ですから」
「そう、それだよ」
何気なく答えると、朔也兄さんは急にくるりと振り向いた。
「どうして急に敬語なの? 昔は普通に喋ってくれてたのに」
私は自然なことだと思っていたけれど、朔也兄さんは引っかかっていたんだ。私は少し考えてから答えた。
「だって…年上の人だし、私ももう、大人だし」
「やめようよ、そういうの。何か変な感じだ。僕にとっては今も昔も、美乃ちゃんは美乃ちゃんなのに」
ね、と彼は首を傾げた。その顔は妹に言い聞かせるような優しさが滲んでいた。
「そう、かな。じゃあ…そうする」
よしよし。彼は頷いて、私の頭を撫でた。
手の大きさは、そのまま昔と同じだった。
「つまりは、幼馴染みの『お兄さん』なのね?」
その日も私と紫は、甘い香りに包まれながら時間を過ごしていた。
「元、みたいなもんだけどね」
「細かいことはどうでもいいの。とにかく、美乃の知り合いだっていうのはアタシにとって凄く心強い」
結局私達は、ほぼ毎日のようにソレイユに通うのが日課になっていた。
飲み物のみの注文も大丈夫なのに、ついうっかり、プチガトーまで頼んでしまう。タルト・フリュイをつつく紫の横で、私はフォンダン・ショコラを口に運ぶ。
「にしても。美味しいわよねぇ、このケーキ。桐島さんって腕がいいんだ」
お互いの皿を、一口ちょうだいなどと言いながら食べ比べる。さっくりとしたタルトの上に、カスタードクリーム。彩る真紅の苺とクランベリー。
「問題は体型維持だね」
いくら甘さ控えめ・カロリー控えめと書かれていても、これじゃきっと効果は無い。
「アタシは大丈夫よ。太りにくい体質だもん」
「えー。ずっるいなぁ」
「美乃は辛抱強く、筋トレでもしてなさいって」
そういえば、彼女がカロリーに悩まされているのを、出逢ってから一度も見たことがない。どういうことかと思えば。太らないなんて、うらやましいことこの上ない。
でもさ、と会話を続けようとすると紫は、あ、と声を洩らして私の背後に視線を吸い寄せられていた。
余所行きの笑顔が誰に向けられているのかは、振り返らずにも分かった。けれど、私もつられて後ろを振り向く。
「いらっしゃい。美乃ちゃん、紫ちゃん」
そこにはやはり、彼の爽やかな微笑。
「こんにちは、桐島さん。おじゃましてます」
「今日も来てくれたんだね。いつもありがとう」
紫に合わせて、ぺこりと頭を下げる。
そこから先は、心を弾ませた紫が朔也兄さんと楽しげに喋るのを黙って見ていた。
美味しいです、とか、これはどうやって作っているんですか?とか。そんな彼女に、ひとつひとつ丁寧に答えるパティシエ。
楽しそうな紫を見て、安心する。
実際のところ、朔也兄さんに用事があるのは紫だから。
私は、恋する彼女のただの付き添い。
の、はずなのに。
なんとなく、胸の奥がもやもやするのは何故だろう?
「今日も朔也くんのお店に行くの?」
四月も終盤の、土曜日の午後。
玄関で靴を履いているとき、そう母親に声をかけられて我に返った。
「あ、うん」
このところ、紫がバイトでいけない日も、私はソレイユに通っていた。ただの付き添いなのだから、ひとりででも行く必要なんてない。ぼうっとする頭を幾度か振って、母を振り返る。
「じゃあお土産に、オペラとパリジェンヌ買ってきてよ」
前払い、と手を出すと、千円だけ渡された。
足りない。足りなかったら言いなさい。あとで払うから。
言い負けて、しぶしぶ千円だけ財布に入れ家を後にした。
美乃が出て行った後、彼女の母・美紀は投函ポストの中身を確認した。
新聞の投げ込みチラシに雑ざって、ひらりと封筒が足元に落ちる。
それを拾い上げて、何気なく送り主を確認する。
「あれ。桐島さんから何か来てる……あら、朔也くん」
静かにクラシックのかかる店内で、苺の綺麗なフレジエを前に、ぼんやりと時を過ごす。
どうして私、ここにひとりで来てるんだろう。
プチガトーが美味しいから? 居心地の良い空間だから? それもあると思う。
けれど一番の理由は、他にある。
紫と二人で座る指定席。無意識のうちに、目が厨房のドアに吸い寄せられる。
ああ、いけない。
忘れていた気持ちが、朔也兄さんに再会したことで掘り起こされていた。
それを今は、はっきり自覚している。
朔也兄さんを好きなのは、紫なのに。
麗らかな午後の陽気に、だんだんと目蓋が重くなる。