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むせ返るような芳香、甘い蜜。蝶のような優雅さで。 そのカラダに鋭い棘を隠して。
はじめに

ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。

過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
2008.5.6 Asato.S
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 入り江には、また私とセシルだけになりました。

 ザザン。
 夜の入り江に、大きく波の音だけが響き渡ります。

「……ごめんなさい」

 私がそう呟くと、セシルは怪訝そうに私を振り返りました。

「セシルの大事な絵の具なのに、結局返せなかった」

 どうして落としてしまったんだろう。
 そう思うと泣きたくて仕方がありませんでした。

「いいんだよ。実はね、僕はなんとなくそうじゃないかって分かってたんだ」

 ぽろぽろと涙が浮かんでは落ち、波の間にとけていきます。

「じゃあどうして…」

「言ったろう? 君は意外と頑固だって。頭ごなしに否定するより、自分の目で見た方がいい。それに」

 彼は微笑んで私の頭をぽんぽんと叩きました。
 それを合図にしたかのように、私の涙が止まりました。

「なくなったのならもう一度取ればいい。丁度夜明けだ。おいで、アリシア。色を取る所を見せてあげよう」

 そう言って、セシルは私を日の出の見える浜辺へ連れて行きました。

 セシルの言うとおり、東の空がうっすら白くなっていました。
 海の向こうに、太陽が顔をのぞかせていました。

 夜が明けたのです。

 

 それにしても「色を取る」なんて、セシルも不思議なことを言うわ。

 波打ち際に近寄り、セシルは空になった瓶に海水を汲みました。
 何をしているのだろう、と静かに見つめる私に笑いかけて、セシルはその瓶を出てきたばかりの太陽かざしました。

 すると、瓶の中の海水が光を反射してキラキラと輝きだしました。
 
 私はあっ、と息を呑んみました。

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 そうして私たちは町の東にある入り江にたどり着きました。
 ローリエさんによれば、ここで青の絵の具は見つかるということでした。

 でも、どうしたら見つかるんだろう?
 こんなに広い海で、小川から流れた水がどこにたどり着くかも分からないのに。

 すると、セシルが打ち寄せる波に向かって大声で呼びかけました。

「マロウ、いるんだろう? 僕だよ。セシル・ルクリアだ。顔を出してくれないか」


 誰が、と聞き返そうとしたとき、波の合間から女の人が姿を現しました。

 綺麗な女の人でした。
 ただ、足の変わりに青く輝く尾ヒレがついています。

 

 それは人魚でした。

 

 どこからどう見ても、絵本で見た人魚そのものでした。
 物語の中でしか知らない人魚が、私の目の前にいました。

「セシルではありませんか。どうしました」

 海と同じ澄んだ色の髪と瞳。
 その声も、硝子のように透き通っていました。

「ちょっと探し物をしていてね。この辺の事は君がよく知ってる。このぐらいの、小さなガラスの小瓶を知らないかい。中に海の青が入っているんだが」

「分かりました、探してみましょう。少し、待っていてください」

 そういい残すと、人魚は再び海に消えていきました。


「今のは人魚でしょ? 本当にいるのね、すごい!」

 私は興奮気味にセシルに尋ねました。

 山で会ったクインスも、森で会ったローリエも。
 あの人たちを見た時は信じられなかったけど、これで本当に分かりました。
 セシルの言う事は全て本当の事なのだと。

「山には竜、森には精霊、海には人魚がいる。なかなか会えるものじゃない。今日は良い体験だったね」

 セシルは頷くと、私の頭をそっと撫でました。

「ねえ、どうしてセシルは人魚や竜と知り合いなの?よくわからないけど、神様とか、本当はそういうすごい人なの?」

「そんなことはない。僕はただの絵描きだよ」

 なんだかうまくごまかされた気がしました。
 ちゃんと問いただそうとしたとき、水面からさっきのマロウという人魚が顔を出しました。

「ありましたよ、セシル。ですが」

 人魚は大事そうに握っていた手を開きました。
 中には空っぽの絵の具の瓶が入っていました。

 どうやら中身はこぼれてしまったようです。
 けれどセシルは驚くこともなく、ただ一度頷きました。

「ああ、やはりね。どうもありがとう」

 マロウは小瓶をセシルに渡し、そのまま海へと帰っていきました。


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「『誰そ彼』という言葉を知っているか」

 今度は必死に、その人影を振り返った。
 長い髪の間から覗く白い顔。
 刺すような視線。顔立ちは、女性に近い。
 知らない。誰?

「『誰そ彼』という言葉を、知っているか」

「知、ってる」

 私は頷いた。
 聞いたことがある。黄昏…夕方のことだ。人の顔の見分けの付かなくなった時間のこと。そうまさに、今のような時間。
 黄昏。
 そういえば、他にも呼称があったはずだ。思い出せない。何だったか、確か。
 
 言葉の出ない私に向けて、『影』は指を突き出した。
 違う。正しくは、私の後ろを。
 

「では、主の隣りに立つ、そいつは一体誰だ?」

「え――――」
 
 指を差されて振り返る。家路の方、今向かっていた方向を。
 すると、
 私のすぐ側。息のかかるほど側。

 そこには確かに人が居た。
 青白い顔が、無表情で私を見つめていた。

 だ…れ?
 誰?
 だれ?
 しらない。
 知らない。
 見知らぬ顔が。
 笑う。ニタリと。
 だれ?
 まるでこの、夕闇のような、
 恐い。
 だれ?
 影を孕んだ笑みが。
 そしてその手が、私の喉元に伸びてきた。
 声が出ない。
 瞬きが、出来ない。

 ひやりと氷のように冷たい指先が、私の首を掴んだ。

 かしゃり。

「あ――――…!!」

 

 チカチカと、街灯が瞬いた。
 一瞬の揺らぎの後、はっきりと点ったその光の下に、その白い顔は居なかった。驚いて振り返った先にさえ。既に黒い影はいなかった。そこに滴っていた筈の、血の跡すらない。

 誰も居ない。
 居るのは、私だけ。


 腰が砕けるように、その場に座り込む。肩で息をつきながら。必死に、酸素を肺に送った。
 ぽたり、冷や汗が、コンクリートに落ちて消えた。

「あれは、あの人は…」


 あのひとは、誰?


 たそがれ。
 誰そ彼。


 ああ、思い出した。

 
 そう。

 
 
 またの呼び名を、逢魔が時。


End.

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