ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
入り江には、また私とセシルだけになりました。
ザザン。
夜の入り江に、大きく波の音だけが響き渡ります。
「……ごめんなさい」
私がそう呟くと、セシルは怪訝そうに私を振り返りました。
「セシルの大事な絵の具なのに、結局返せなかった」
どうして落としてしまったんだろう。
そう思うと泣きたくて仕方がありませんでした。
「いいんだよ。実はね、僕はなんとなくそうじゃないかって分かってたんだ」
ぽろぽろと涙が浮かんでは落ち、波の間にとけていきます。
「じゃあどうして…」
「言ったろう? 君は意外と頑固だって。頭ごなしに否定するより、自分の目で見た方がいい。それに」
彼は微笑んで私の頭をぽんぽんと叩きました。
それを合図にしたかのように、私の涙が止まりました。
「なくなったのならもう一度取ればいい。丁度夜明けだ。おいで、アリシア。色を取る所を見せてあげよう」
そう言って、セシルは私を日の出の見える浜辺へ連れて行きました。
セシルの言うとおり、東の空がうっすら白くなっていました。
海の向こうに、太陽が顔をのぞかせていました。
夜が明けたのです。
それにしても「色を取る」なんて、セシルも不思議なことを言うわ。
波打ち際に近寄り、セシルは空になった瓶に海水を汲みました。
何をしているのだろう、と静かに見つめる私に笑いかけて、セシルはその瓶を出てきたばかりの太陽かざしました。
すると、瓶の中の海水が光を反射してキラキラと輝きだしました。
私はあっ、と息を呑んみました。
そうして私たちは町の東にある入り江にたどり着きました。
ローリエさんによれば、ここで青の絵の具は見つかるということでした。
でも、どうしたら見つかるんだろう?
こんなに広い海で、小川から流れた水がどこにたどり着くかも分からないのに。
すると、セシルが打ち寄せる波に向かって大声で呼びかけました。
「マロウ、いるんだろう? 僕だよ。セシル・ルクリアだ。顔を出してくれないか」
誰が、と聞き返そうとしたとき、波の合間から女の人が姿を現しました。
綺麗な女の人でした。
ただ、足の変わりに青く輝く尾ヒレがついています。
それは人魚でした。
どこからどう見ても、絵本で見た人魚そのものでした。
物語の中でしか知らない人魚が、私の目の前にいました。
「セシルではありませんか。どうしました」
海と同じ澄んだ色の髪と瞳。
その声も、硝子のように透き通っていました。
「ちょっと探し物をしていてね。この辺の事は君がよく知ってる。このぐらいの、小さなガラスの小瓶を知らないかい。中に海の青が入っているんだが」
「分かりました、探してみましょう。少し、待っていてください」
そういい残すと、人魚は再び海に消えていきました。
「今のは人魚でしょ? 本当にいるのね、すごい!」
私は興奮気味にセシルに尋ねました。
山で会ったクインスも、森で会ったローリエも。
あの人たちを見た時は信じられなかったけど、これで本当に分かりました。
セシルの言う事は全て本当の事なのだと。
「山には竜、森には精霊、海には人魚がいる。なかなか会えるものじゃない。今日は良い体験だったね」
セシルは頷くと、私の頭をそっと撫でました。
「ねえ、どうしてセシルは人魚や竜と知り合いなの?よくわからないけど、神様とか、本当はそういうすごい人なの?」
「そんなことはない。僕はただの絵描きだよ」
なんだかうまくごまかされた気がしました。
ちゃんと問いただそうとしたとき、水面からさっきのマロウという人魚が顔を出しました。
「ありましたよ、セシル。ですが」
人魚は大事そうに握っていた手を開きました。
中には空っぽの絵の具の瓶が入っていました。
どうやら中身はこぼれてしまったようです。
けれどセシルは驚くこともなく、ただ一度頷きました。
「ああ、やはりね。どうもありがとう」
マロウは小瓶をセシルに渡し、そのまま海へと帰っていきました。
今度は必死に、その人影を振り返った。
長い髪の間から覗く白い顔。
刺すような視線。顔立ちは、女性に近い。
知らない。誰?
「『誰そ彼』という言葉を、知っているか」
「知、ってる」
私は頷いた。
聞いたことがある。黄昏…夕方のことだ。人の顔の見分けの付かなくなった時間のこと。そうまさに、今のような時間。
黄昏。
そういえば、他にも呼称があったはずだ。思い出せない。何だったか、確か。
言葉の出ない私に向けて、『影』は指を突き出した。
違う。正しくは、私の後ろを。
「では、主の隣りに立つ、そいつは一体誰だ?」
「え――――」
指を差されて振り返る。家路の方、今向かっていた方向を。
すると、
私のすぐ側。息のかかるほど側。
そこには確かに人が居た。
青白い顔が、無表情で私を見つめていた。
だ…れ?
誰?
だれ?
しらない。
知らない。
見知らぬ顔が。
笑う。ニタリと。
だれ?
まるでこの、夕闇のような、
恐い。
だれ?
影を孕んだ笑みが。
そしてその手が、私の喉元に伸びてきた。
声が出ない。
瞬きが、出来ない。
ひやりと氷のように冷たい指先が、私の首を掴んだ。
かしゃり。
「あ――――…!!」
チカチカと、街灯が瞬いた。
一瞬の揺らぎの後、はっきりと点ったその光の下に、その白い顔は居なかった。驚いて振り返った先にさえ。既に黒い影はいなかった。そこに滴っていた筈の、血の跡すらない。
誰も居ない。
居るのは、私だけ。
腰が砕けるように、その場に座り込む。肩で息をつきながら。必死に、酸素を肺に送った。
ぽたり、冷や汗が、コンクリートに落ちて消えた。
「あれは、あの人は…」
あのひとは、誰?
たそがれ。
誰そ彼。
ああ、思い出した。
そう。
またの呼び名を、逢魔が時。