ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
それから、ひと月が経った。
雲ひとつない夜空に、星と丸い月が輝いている。
私は思い立って、あの入り江に足を運んだ。
やはり彼女は、月の影の中にいた。
「こんばんは」
「こんばんは」
「また、演奏に来たのですね」
「ええ。それから、あなたに会いに」
そうしてヴァイオリンを弾いた。
海の女神は、私の演奏に合わせて歌を歌った。ヴァイオリンに彼女の澄んだ声は良く合った。今までに聴いたことのない、美しい二重奏だった。
それから私たちは、満月になる度、入り江で二人だけの演奏会を開いた。ひとつきの内にたとえ嫌なことがあっても、天満月の夜が来れば心が洗われた。
恋を、していたのかもしれない。
あの女神に。
私の演奏を受け入れてくれた、海の歌姫に。
「海を渡ることになりました」
毎月の演奏会を催すようになって、10度目の夜。
私は弦を引く手を止めて、そう口にした。
「海の向こうへ。音楽の街でヴァイオリンの修行をするのです」
「そうですか」
彼女は淋しげな表情を滲ませた。心が、痛んだ。
「もっと、貴方のヴァイオリンを聴きたかった」
そう言って、海の向こうを眺める彼女。もしかしたら、私の行く先を探しているのかもしれない。
「まだ」
堪らず声をかける。彼女が、私を振り返った。
「まだ、名前を聞いていませんでしたね。私は、カクタス。あなたのお名前は? 海の女神」
「マロウと申します。この入り江に住む、海の住人です」
そうして私達は、初めてお互いの名前を呼んだ。
波の音だけが、静かに響いた。
「また会いましょう、マロウ」
「ええ、カクタス。…きっと」
また会う約束をしたのも、初めてだった。今度ばかりは、約束をしなければ会えなそうだったから。
けれどもう。
逢う事は叶わないと、心のどこかで理解していた。
次の日の夜。最後の船で私は海に出た。
波の合間に、朧げに、歌声が聞えた。
それは私が海辺で弾いたあの曲だった。
満月の夜に奏でた、女神に捧ぐセレナーデ。
ある夜、私は誰もいない入り江へやって来た。
満月が綺麗な夜で、他の灯りがなくても後ろに影が付いてまわった。
波の音に合わせて、持ってきたヴァイオリンを弾く。誰にも邪魔されず、何にもかき消されること無く、ひとり静かに旋律を奏でた。
今この世界は、月と海と私だけだった。
聴こえるのは、波の囁きとヴァイオリンの歌だけ。
「こんばんは」
突然、世界に私ではない誰かの声が響いた。透き通った女の人の声だった。
波に向かって立っていた私は、後ろを振り返る。
しかし、やはり誰もいない。
「こちらです」
また声がした。今度ははっきりと海のほうから聞こえた。
水面をよく見ると、月の光を浴びた海の女神がこちらを見ていた。私は応えた。
「こんばんは。良い月ですね」
「ええ。そして、良い音色です」
足の変わりに青い鰭を持つ海の女神は、どうやらヴァイオリンの音色に誘われて顔を見せてくれたようだった。
「ここはもしや、あなたの住まう場所ですか」
彼女は微笑みながら頷いた。私は軽く頭を下げる。
「申し訳ない。そうとは知らずに、騒がせてしまって」
「いいえ。あなたのような方なら大歓迎です」
そう言って、彼女は真っ白な首をもたげて、波間の岩に身をゆだねた。
「だから、もっと聴かせてください」
女神の願いに応えて、私は再びヴァイオリンを構えた。
私は夜に酔ったように演奏を続け、彼女はただ黙って耳を傾けた。海と満月の世界には、ヴァイオリンの音と波の音だけが響いた。
今この時間は、私達のものだった。
月と海と、柔らかに霞んだ夜。
聴こえるのは、波の囁きとヴァイオリンの歌だけ。
中天から月が傾き始めた頃に、やっと演奏を終える。
帰り支度をする私に、彼女が微笑んだ。
「また、聴かせていただけますか」
「ええ。喜んで」
青い人魚は海へ帰り、私は家路へついた。
次に会う約束はしなかった。でも、きっと、また会えるだろう。