ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
私達は山道を登り、昼間絵を描きに来た原っぱにたどり着きました。
そこは町と海の全てが見渡せる場所。今夜は満月なので、月の光で今も町が見えました。
不思議なことに、そこには先客がいました。原っぱの真ん中で誰かが満月を見上げて立っています。
私より五つか六つくらい年上の男の子。金色の長い髪が月の光を浴びて綺麗でした。
「こんばんは、クインス」
その男の子に、セシルが声をかけました。
「セシルか。久しぶりだな。それと、そこにいるのはアリスか」
どうやらセシルはこのクインスという人と知り合いのよう。
でも、どうして彼は私の名前も知っているんだろう?
そう。私の名前はアリス。けれど、名前で呼ばれることはほとんどありません。皆は私のことを“アリシア”と愛称で呼ぶからです。
なのにこのクインスというひとは、初対面の私の名前を知っていました。
首を傾げる私をよそに、ふたりは会話を続けました。
「こんな刻限にどうした。人間が活動する時間ではないだろう」
「青が入った小瓶を探しているんだ。そうだ、あなたなら分かるのではないかな」
「なるほど」
クインスはセシルの話を聞くと、大きく両手を広げました。
まるで翼のように。
実際、彼の影は大きな翼を持つ生き物のように見えました。
ざわり。
一瞬、静かだった草原を風が吹き抜けました。
ざわり。ざわざわ。
しばらくして少年は再び眼を開けました。
そして、静かに言葉を紡ぎました。
「……ここにはもう無い。少なくとも森の中には。どうやら小川を流れて海へ行ったようだな」
広げた手を下ろして、クインスは私達を振り向きました。
「小川に沿って山を下れ。山から外のことは知らない。知りたいのなら森の知恵に聞け」
「森……小川の流れるほうだから、イリスじゃなくローリエか」
クインスの答えを聞いて、セシルは確認するように何かを呟きました。
それから微笑んで、感謝するように深く会釈を示しました。
「ありがとう、助かったよ」
「お前とは古い付き合いだからな」
セシルが言うと、少年は初めて笑顔を見せました。
その笑顔は、私が今まで出逢った人たちには真似できないほどの美しいものでした。
寝静まった夜の世界は、静かでした。
ただ波の音だけが聞こえます。
月はまだ出ていました。きれいな満月でした。
その光をたよりに、私は山へ続く道を急いでいました。
ここは、ある国の港町。海と森に囲まれ、山を背にした小さな町です。昼間は賑やかなこの町も、夜になった今はひっそりとしています。
月に照らされた町で、動いているのは私だけ。
山が近づくにつれ、いつの間にか波の音さえ聞こえなくなっていました。
そんな何の音も聞こえない闇の中で、唯一私の耳に入った音がありました。
「おやおや。こんな遅くにどこへ行くのかな? アリシア」
それは人の声でした。
しかも、聞きなれた友達の声。
「セシル!」
振り返ると、小さな時計灯の下に、月明かりを浴びて一人の青年が立っていました。
彼はいつも通りの笑顔で、私の方へやって来ました。
「どうして?」
「部屋の窓から、君が走っていくのを見てね。追いかけてきたんだよ」
セシルは最近この町にやって来た絵描きでした。
普段はあちこちを旅して絵を描いていて、今はたまたま近所の宿に泊まっています。
私はその不思議な旅の画家と友達になりました。
いつでも彼の行く先についていって、その仕事ぶりを眺めるのが好きでした。
「この先は山だよ。夜のひとり歩きは危険だ」
「だって…絵の具が…」
「もしかして、僕の絵の具の瓶かい?」
私は黙って頷きました。
それは私が昼間に失くしてしまった絵の具です。
彼はガラスの小瓶に入った素敵な絵の具を持っていました。まるで自然の色をそのまま絵の具にしたような、いきいきとした色。
その中に、不思議な輝きをする透明な青い絵の具がありました。
私も大好きな色だったのに、草原のどこかに紛れこませてしまったのです。
家へ帰ってからもずっと、失くした絵の具が気になって仕方がありませんでした。
ベッドに入っても眠れない。セシルは諦めたようだったけれど、私はだめでした。だからこうして、こっそり家を抜け出してきたのに。
さすがに怒られて連れ帰られるのだろうとしょんぼりするしかありません。
しかし、彼が言った事は、私の思ったこととは全く逆のことでした。
「……仕方ないな」
「え?」
「君だけじゃ危ないよ。僕も一緒に行こう」
「怒らないの?」
「アリシアは意外と頑固だからね。それに、少しくらい夜の散歩をするのもいいさ」
セシルはそういって微笑むと、私の先に立って歩きだしました。
そこで私は目を開けた。
気がつくと電車の中で揺られていた。
先頭の車両に乗っていた。私の他に人影は無い。
随分遠くまで来たらしい。外には夕焼けに染まった草原の風景がどこまでも広がっていた。
そのまましばらく座っていたが、すぐに奇妙な事に気付いた。
景色はいつまでも夕暮れの草原で、次の駅に着かない。5分立っても、10分立っても、一向に駅に辿り着く気配が無い。
そのうちに、列車はカーブに差し掛かった。黄金色の田園を大きく曲がると、後ろに連なる車両が見えた。
そしてその目を疑った。
終わりがない。
車両は遥か後ろに伸びている。
いつまでも。
いつまでも。
途切れる事無く。
私は思わず立ち上がった。窓に張り付いて、どうにか最後尾を見ようとした。
でも、見えないのだ。
車両の果てを知りたかった。自分の目で、その終わりを確かめたかった。
次の車両へ続くドアを開けた。そして、揺らぐ車両を、終わりに向けて歩き出した。
揺れて歩き辛い電車の中を、おぼつかない足取りで歩く。次のドアを目指して。そして、また次の車両のドアを開ける。
「一体いつまで続くんだ!!」
どれくらいドアを開けただろう。いくつ車両を来ただろう。それでも他の乗車客はなく、列車の果てにつく事もない。
そんな中、私は最後尾の車両を目指す。
それから何十回とも分からないほど戸を開けた時、ドアの向こうの世界が初めて変化した。
重い戸を開けると暗い世界が広がった。先刻まで夕焼けだった世界が、一瞬にして闇に変わった。開け放たれたドアから室内に風が吹き込む。足下に広がるレールが遥然と向こうに去って行く。
そこが電車の終わりだった。
驚いて後ずさる。
なんだ、これは。全てはここで終わりなのか。
唐突に跡形もなく、終わってしまうものなのか。
すると突然、誰もいないはずの車内から声が響いた。
「もう、終わりにする?」
それは知らない声だった。そして知らない顔だった。
でも、懐かしさを感じた。私よりいくらか年若い、少年。
「列車はまだ続いている。君がこの先に進みたいと想うなら」
彼は指さした。
暗闇の向こうを。
レールの消え行くほうを。
「どうする?」
彼は私に尋ねる。
私は彼を見る。
「どうする?」
電車がレールを滑る音の合間を裂いて、もう一度、彼の声が響いた。
私は息を呑んだ。
そして、強く強く拳を握る。
「私は」
そう。
まだ見つかっていないんだ。私の探すものは。
そして、私は。振り向いて。
その闇の中に身を投じた。
――ここはまだ、終わりじゃない。
飛び降りた先は、きっと、現実。