むせ返るような芳香、甘い蜜。蝶のような優雅さで。 そのカラダに鋭い棘を隠して。
はじめに
ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
2008.5.6 Asato.S
嶋原結遊女語
(しまばらむすびゆめがたり)
「今宵流るは霞か雲か」
声が聞こえる。
艶やかな女の声だった。
「はやる白羽は桜か雪か」
歌が聞こえる。
しとやかな御座敷の歌だった。
まだ灯も入らない廓(くるわ)の通り。
昼見世を控えた大きな置屋の二階、格子の入った窓の中で、一人の遊女が煙管をふかしていた。
位は太夫に次ぐ天神だった。髪には笄(こうがい)と前びら、べっこうの大櫛、菖蒲(あやめ)の花簪。華やかに着飾った彼女の打掛と帯の見事なこと。
「夢のかんばせ、うつつの瞳。闇に消ゆるは宵烏」
大門の方角からは喧騒。軒の下、通りは次第に人が賑わい始める。上等の仙台袴の男や、流行りのつぶし島田に結った娘達が擦れ違う。天神はそれに目もくれず、ただ窓の外に広がる薄青の空を眺めていた。
白い煙と溜め息と歌が空に溶けていく。細い糸を紡ぐように、一人の客が好きだと言った歌を口ずさむ。
「からの足枷、まほろの腕(かいな)。夢見し宴の捨篝――なんて、なぁ」
その表情にぼんやりとした微笑みが滲んだ。
彼女は何を見ているのだろう。天上を仰ぎながら心がそこに無いことは、何か物憂げな色を浮かべる瞳が物語っていた。
諦めたように息を吐くその傍ら、ふいに側を通り掛かった影があった。瓦屋根の上を、転がり落ちもせずに歩いてきた小さなもの。
「おや、お前も独りなの」
天神が声をかけたのは、灰色にくすんだ猫だった。毛並みは悪いが、やせ細っているというほどではない。
おそらく野良だろう。彼女の所在を知ってか知らずか、格子のすぐ側で丸くなって毛繕いを始める。
女はそれを暫く眺めていた。
「なぁんて。うちも、猫やったら良かったのに」
それから、ふっと笑った。ゆらり紫煙が混じる。
「猫やったら、こないな思いせぇへんでも良かったのに」
猫は振り向きもしなかった。ただ少しだけ顔をあげて、小さくにゃあと鳴いた。
時間だけが過ぎた。猫は自らの背を熱心に舐め、天神は煙管をくゆらせた。
やがて襖が開いて、その向こうで可愛らしい禿(かむろ)が頭を垂れる。
「お客はんどす、姐さん」
「はぁい」
振り向いた顔には、完全な笑顔。
煙管を置いて、ゆっくりと立ち上がる。
「虚の足枷、幻の腕――」
その間も唇からこぼれる夢結の小唄。禿を従え部屋を出ようと、足を踏み出す、最中。
ふいに胸の奥で、懐かしい声を聞いた。
『一緒になろう』
天神は格子の向こうを振り仰いだ。
一刹那の後、すいと目を細める。
「嘘吐きな人」
時代が変わろうとしていた、動乱の浮世。
それが嘘ではないと知りながら、
少なくとも、相手にとってはまごうことなき本心だったと知りながら。
女は呟くしか出来なかった。
過ぎるのは、きらめく白刃。
その時にどこかで散ったであろう、真赤な椿。
そして二度と逢うことの無い、男の面影。
終.
補足:『夢結小唄』
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