ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
春への引継ぎが終わって数日。冬は、冬のいるべき場所へ帰る必要があった。
次々と宮殿を出る冬の民。しかし、一人は永く空を見上げていた。灰色の髪と白のマフラーが風になびく。
『お疲れ様。どうかした?』
隣に一人の女性が立った。銀の瞳と、雪のように輝く長い髪が太陽の光を反射した。
『…いや』彼は力なく首を振る。
『私はもう少し空を眺めていくよ』
それから幾日も幾日も、彼は街の外れで空を見ていた。出番はもう、一年後まで回ってこないというのに。
そしてある日。 彼は見ていた。空を覆うものが剥がれ落ちるその瞬間を。
あれは。
落ちる。落ちてしまう。まだ誰も気がついていないようだ。あのままでは地上に――
その時、心に過ぎった。落ちれば、それは誰かのものとなる『可能性』が生まれる。
彼はそれを誰にも知らせずに黙って見ていた。 カラリ、カラリ、とまるで塗料が剥がれるかのように次々と空の面を離れた。
落ちろ、落ちてしまえ。
しばらくして、宮殿が騒がしくなり出した。やっと異常に気がついたらしい。 彼はそれに背を向けた。喧騒を縫うように街を抜け、横道を通り、雲間から外へ抜け出した。
雲の端から空を見下ろす。地上は遠く、代わりに青色と白い雲が広がっていた。
パラパラと落ちていく空のカケラ。まだ誰も破片を拾いに出てはいない。
堕ちろ、堕ちてしまえ。
彼は両手を広げて、その青色の中へ飛び降りた。
* * *
カナリア曰く「危ないから下がって」の意味が分かった。フェンスやコンクリートの床が凍っている。
空がまるで雪空のように雲に覆われた。春には不釣合いだった白いマフラーが今は暖かそうに見える。
これが、冬。
「あなたは良識ある冬の民のはずよ。それなのになぜこんなことをするの」
「この世界は病んでいるんだ! 助けようとして何が悪い?」
違う。
彼は尚も想いを吐き出す。
「この世界が崩れれば、私達だけではなく地球の生き物も居場所を失う。そこにいる人間も、全てだ。だから私が手を伸べる。年中を冬にしようとも、世界が治癒するのならそれでいいだろう?」
違う。私は口の中でそう呟いた。
この世界は、そんな簡単な仕組みじゃない。
「雪は嫌いか? 木枯らしは嫌いか! すべてが眠る、穏やかな灰色の世界では満足しないというのか!」
凍えそうなこの冷たさは、どこから湧いてくるのだろう。全身の震えは、本当にこの寒さから来ているのだろうか。
「そうじゃないよ」
私はついに冬の叫びを遮った。私の一言が、揺らぐ世界を止めた。
「そういう問題じゃないの。だって、もう人間には寒さなんて関係ないから」
「…な、に?」
彼の意識がこちらに向く。木枯らしが弱まった気がした。
「暖房って知ってる? ストーブとか、ヒーターとか。人間が寒いときに、快適に過ごせるように室内を温かくするものなんだけど」
冬は私の言葉に耳を傾けた。カナリアまでもが私に注目している。
「寒ければ寒いほど、人間は暖房を駆使するの。そうすると二酸化炭素の排出量が上がって…温室効果ガス?が…ええと」
説明しながらしどろもどろになる。ああもう、こんなことならもっと勉強しておくんだった。そんな邪念が入って、頭を振る。後悔先に立たず、だ。
「とにかく、そうなると益々地球温暖化が進むの。だから、むやみに冬を長くすることは環境には望ましくないんだと思う」
「それ…は」
「こんなこと…私も認めたくないけど」
屋上に静寂が広がった。
私の言葉は伝わっただろうか? 雄大な空と自然に比べれば、私なんて小さい存在のひとつでしかないけれど。そんな小さな人間が、寄ってたかって世界を滅ぼそうとしている。無自覚でも、それも罪だ。
でも、だから。余計に秩序を乱す手伝いは出来ない。例え彼が自然を救おうと思っていても。
滑稽だ。悪が正義を諭しているような。
「イヴェール」
雪の中のような無音の世界をカナリアが破った。
「分かった? 自然のバランスを崩すということは、今よりも地球に酷い仕打ちをすることに繋がるの」
彼女はいつものように強気で。けれど、その中に慈しみと温かさが混じっているのを私は感じ取っていた。
刺すような寒さが途絶えた。冬は明らかに動揺していた。造られた冬空と私達との間を視線が行来する。
「返しましょう。空は誰のものでもないわ。だから、誰もが一緒になって大切にしなければいけないの」
その言葉は、母が子に言い聞かせる優しさに似ていた。
間違いなかった。
灰色の髪。同色の服。真っ白な長いマフラー。
彼だ。今日一日、カナリアと共に追った。
『冬』。
私は緊張した足取りでその後姿に歩み寄った。それでも彼は青空を見つめていた。
「あの…」
恐る恐る声をかける。すると、銀色の瞳が私を振り返った。
「また、逢いましたね」
彼は私の顔を見るなりそう言った。良かった。逃げられる心配は今の所なさそうだ。
「今日はいい天気だ。付き抜けるような蒼天。雪のように白い雲。そして、それを溶かす太陽」
凍ったような、それでいてどこか優しい声。私は頷く。
「ええ…とても。でも、少し寒くありませんか?」
「そうですか? 私はもう少し涼しくてもいい」
同意はせずに、曖昧に微笑を返す。うまく笑えた自信はないけれど。
「…この辺りも、随分変わってしまった」
彼はぽつりとこぼした。驚いて足を止める。
「以前はもっと自然が多くて、どこにいっても静かだった」
それはどうも、独り言に近いようだった。
フェンスの向こうに広がる街を見ながら、穏やかな顔で言う。
「もちろん、今のこの場所も嫌いではありません。かたちあるものというのは、移ろいゆくものですから」
ふいに振り返って、私に語りかける。そしてまた、彼は何も言わずに空と街を見つめる。
聞えるのはどこかでさえずる鳥の声と、遠くから聞える街の喧騒。私はもう一歩歩み寄る。
「昨日渡したあのピース、一度見せていただけますか?」
声が、顔が、強張っているのが自分で分かった。
「ピース?」
「パズルのピースです。きっと、この空と同じ青色の」
ああ、と思い当たったように頷く。しかし次には、微かに首を横に振った。
「出来ません」
「…どうして?」
私は立ち止まる。彼は一瞬だけ微笑みを浮かべると、私の背後に視線をやった。
「あなたの後ろに空がいるからです」
そこには、今入ってきたばかりの鉄の扉。冬が言い終えると、それを待っていたかのように扉がゆっくりと開いた。
そして、その向こうに、一人の少女。
晴れた青空色の髪と、カナリア色の瞳。紺のワンピース。そして肩には、白いハト。
「あら…わたしのことを知っているのね」
少女は優雅な笑みをたたえていた。見つかってしまった、という動揺は微塵も感じられなかった。むしろ、こうなることを望んでいたかのような余裕を含んでいる。
「カナリア…」
「サキは危ないから下がっていて」
少女は一瞬だけ私に目を向け、低く答えた。そしてもう一度冬に笑顔を向ける。それに対して冬も微笑を返す。
「私も長いからね。空を任された者達の顔は全て覚えているさ」
「それは光栄だわ、冬の指揮者」
そう告げると、彼女は右手を冬に向けて突き出した。
手のひらが彼に見えるように、要求の仕草。
「破片を返しなさい。それはあなたのものではないわ」
それは警告。有無を言わさない、絶対的な命令。
余所行きの笑顔が、すうっと掻き消えた。落ち着いたカナリアの声。無表情の冬。
「出来ない。世界を助けるには必要だ」
冬は銀の瞳でカナリアを見据えた。その色に似合った、雪のように冷たい眼差し。
「分からず屋ね」
カナリアは溜め息を吐いた。やはり簡単には行かないか、と言っているように私は感じた。
「分からず屋? 自然を助けるための直接的な手段じゃないか」
「違うわ。あなたは少し思考が固いの。時に、身動きを取れなくなるほどに」
心なしか、気温が低くなった気がした。そう。ちょうど冬の周りから次第に空気が冷えているような。
「あなたがそうだから今年の冬は期間が短かった。スーニャがそう決定した。違う?」
「黙れ!」
冬はカナリアの言葉を遮るように叫んだ。
激昂。それは、憤りを露わにした声だった。
彼の叫びにあわせて、凍えるような突風が吹いた。
時間は3時を少しまわった所。野球部の掛け声も、吹奏楽部の演奏も聞えてこない。正門は既に閉じられていた。その横に警備員室があるけれど、そこすら空っぽ。少し不信感を覚える。
「まだいるわ。空の気配が続いてる」
正門も壁も背が高い。どうやって入り込むか考えていると、カナリアが門の向こう側を見つめながら言った。それから私に手を伸ばす。
「とにかく入りましょう。サキ」
手を取ると、それを見計らってカナリアが地面を蹴った。
ふわり、と重力が軽くなったように体が宙に浮かぶ。私の身体も一緒に。驚く間もなく、門を飛び越えて敷地内に着地。難なく無人の高校へ侵入できた。
足が再び地面を捉えた瞬間、寒気が走った。
冷蔵庫の中にでも入ったような、ひんやりとした空気。見ると、吐く息も少し白い。
「長く居過ぎたのね。この空間が冬になってる」
それはもう、私にも理解できた。
『冬』は、まだここにいる。
校庭にもひとけは無い。部室棟も体育館も静まり返り、奥に進むほど寒くなっていく。あちこちにうっすらと霜が張っていた。
「寒い?」
私は首を振る。寒さを体感できるほどの余裕はなかった。
「大丈夫。カナリアこそ」
「私は何ともないわ。仮にも空の民だもの」
外を一通り確認して回ったけれど、冬は見当たらなかった。ということは、あとは校舎の中だ。
昇降口の扉が重い音を立てて開く。途端に、冷たい空気が全身を包んだ。
「中のほうが寒い…」
私は声を潜めて目配せする。するとカナリアが頷いた。
「…いるわね」
冷気を追って廊下を歩いた。互いに交わす言葉は無かった。ただ、冬の気配をひしひしと感じながら前へ歩を進める。導かれるように階段を昇ると、どうやら次第に上に行く度に寒さが増しているようだった。
晩春の天気とは信じられない気温。既に息は真っ白く空中に留まる。もしかすると、普段の冬よりも寒い。
2階から3階へ、3階から4階へ。
そして、行き着いたのは屋上に出る扉の前。
「行きましょう」
彼女が扉に手を伸ばす。しかし私は、それを遮った。空の少女は視線だけを私に返した。
「カナリアはここにいて。私が先に行く」
思い出したんだ。
今までずっと、『冬』はカナリアの前に姿を現さなかった。私が冬を見たのは、私が一人でいたときだけ。
もしかしたら、冬はカナリアに気付いているのかもしれない。
パズルを取り返しに来た存在なのだと。
もちろん、私がひとりだからといって、また冬が話をしてくれるかは分からない。もうカナリアと行動していることを知られている可能性だってある。
でも、ここまで来てもう逃がす訳にはいかない。
カナリアはしばらく考えた後、やっと首を縦に振った。
「分かったわ」
カナリアが扉から一歩下がった。それとは反対に、一歩前に出る。
鉄の扉は、冷気で更にひんやりしていた。彼女に知れないように、こっそりと拳を握った。
それを、力を込めて押す。
ギイィ。
音と共に、外界の眩しい日光が差し込んできた。
暗い校内に慣れた視界が白色の光に満たされる。
目は一瞬で順応した。そして私は息を殺す。
明るい日光の中には、転落防止のフェンスと、貯水タンク。
そして、真っ白の長いマフラーを巻いた人影が、青空を見上げて立っていた。