むせ返るような芳香、甘い蜜。蝶のような優雅さで。 そのカラダに鋭い棘を隠して。
はじめに
ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
2008.5.6 Asato.S
やがて祭囃子は遠ざかっていきました。
蜜柑の木の下から這い出すと、漆黒の姫は煙管を咥え、甘い紫煙をくゆらせていました。
私を見ても、にやりと微笑うだけ。それ以上は何も、話しかけてくることも、追い払うこともしません。
私は居心地の悪さに耐えられず、自ら話しかけました。
「あたしは、ここに居てもいいの」
白と黒とに支配された夜の中、馴染んでいないのは私の菫色の夜着。私だけが居てはいけないもののように、この確立した世界に紛れ込んでしまった異分子のような錯覚を憶えました。
彼女は唇から煙管を離し、ゆっくりと口を開きました。
「いいんだよ。今夜は良い夜だからね。付喪神たちが騒ぎ出してしまうほどにね」
まるで絵巻の中から抜け出したようなその姫様は、いつの間にか手に帳面のようなものを持っていました。懐にしまうにはやや大きい、黒い革張りの手帖でした。
目を留めると、紅唇を月の剣のように歪ませて微笑みました。
「おや、この手帖が見えるのかい」
私は小さく頷き返します。すると漆黒の姫は益々興味深そうに私を見つめます。
「じゃあ特別に教えてあげようね」
まるでとっておきの内緒話をするように。顔を近づけて、薄く嗤いました。
「これはね。人間の名を書きとめるための手帖だよ」
それから私にも覗き込めるように広げて、そこに並んだ文字を指しました。
筆で書かれた流麗な文字。それは誰かの名前のようでした。見知らぬ名前が、つらつらと書かれています。その中にひとつ、見覚えのある名前。
「これはおとつい死んだ童。それからこれは、今晩死ぬ男の名だよ」
そのようなことを、まるで軽々しく口にしました。むしろどこか誇らしげに、それでいて自慢げに。
私は悟りました。
おそらくこれは鬼籍なのだ。黄泉の国の入り口で、閻羅の王が記するというそれと同じの。
この手帳に名前を書かれれば最後、死んでしまうのだ、と。そう漠然と理解しました。
「お前、名はなんというんだい」
やがて姫様はその手帖を閉じ、息を呑んだまま動けなくなっている私に問いました。
私は応えます。存外、心の奥では落ち着いていました。
「やえ」
「八重咲きの『やえ』かい」
彼女は私の頭に飾った八重咲き牡丹の簪(かんざし)を見つめて言いました。赤い赤い、見事な牡丹を模した細工。つい先日の十六の誕生日に母様がくれた簪でした。
私は黙って頷きます。
するとまた微笑んで、
「私は立華(たちばな)。ひとの仔に見破られたのは初めてだよ」
立華と名乗るその女性。そして季節外れの白い花。
彼女がひとでないことと、この場所が私の普段生きる場所と違うことは、既に疑いようのないものになっていました。
ここは狭間だ。
此の岸と彼の岸の。
それなのに、ちっとも恐ろしくない。
蜜柑の木の下から這い出すと、漆黒の姫は煙管を咥え、甘い紫煙をくゆらせていました。
私を見ても、にやりと微笑うだけ。それ以上は何も、話しかけてくることも、追い払うこともしません。
私は居心地の悪さに耐えられず、自ら話しかけました。
「あたしは、ここに居てもいいの」
白と黒とに支配された夜の中、馴染んでいないのは私の菫色の夜着。私だけが居てはいけないもののように、この確立した世界に紛れ込んでしまった異分子のような錯覚を憶えました。
彼女は唇から煙管を離し、ゆっくりと口を開きました。
「いいんだよ。今夜は良い夜だからね。付喪神たちが騒ぎ出してしまうほどにね」
まるで絵巻の中から抜け出したようなその姫様は、いつの間にか手に帳面のようなものを持っていました。懐にしまうにはやや大きい、黒い革張りの手帖でした。
目を留めると、紅唇を月の剣のように歪ませて微笑みました。
「おや、この手帖が見えるのかい」
私は小さく頷き返します。すると漆黒の姫は益々興味深そうに私を見つめます。
「じゃあ特別に教えてあげようね」
まるでとっておきの内緒話をするように。顔を近づけて、薄く嗤いました。
「これはね。人間の名を書きとめるための手帖だよ」
それから私にも覗き込めるように広げて、そこに並んだ文字を指しました。
筆で書かれた流麗な文字。それは誰かの名前のようでした。見知らぬ名前が、つらつらと書かれています。その中にひとつ、見覚えのある名前。
「これはおとつい死んだ童。それからこれは、今晩死ぬ男の名だよ」
そのようなことを、まるで軽々しく口にしました。むしろどこか誇らしげに、それでいて自慢げに。
私は悟りました。
おそらくこれは鬼籍なのだ。黄泉の国の入り口で、閻羅の王が記するというそれと同じの。
この手帳に名前を書かれれば最後、死んでしまうのだ、と。そう漠然と理解しました。
「お前、名はなんというんだい」
やがて姫様はその手帖を閉じ、息を呑んだまま動けなくなっている私に問いました。
私は応えます。存外、心の奥では落ち着いていました。
「やえ」
「八重咲きの『やえ』かい」
彼女は私の頭に飾った八重咲き牡丹の簪(かんざし)を見つめて言いました。赤い赤い、見事な牡丹を模した細工。つい先日の十六の誕生日に母様がくれた簪でした。
私は黙って頷きます。
するとまた微笑んで、
「私は立華(たちばな)。ひとの仔に見破られたのは初めてだよ」
立華と名乗るその女性。そして季節外れの白い花。
彼女がひとでないことと、この場所が私の普段生きる場所と違うことは、既に疑いようのないものになっていました。
ここは狭間だ。
此の岸と彼の岸の。
それなのに、ちっとも恐ろしくない。
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