ようこそ、偽アカシアへ。
こちらは私、朝斗の今までの作品展示室となっております。
過去作品から随時追加予定です。
同じものを掲載していますが、若干の推敲をしている場合もあります。
詳しくは『はじめに』をご一読ください。
 雨の下で、春樹はひとり話し続けた。
 目の前の女性は一向に話しかけてはくれなかった。彼だけが必死に、短い言葉でどうやって想いを伝えられるかと、言葉の限りを尽くした。
 時間はあまりない。
 もう、いつまでも彼女を、ここに縛っていてはいけない。
 
 話すことはたくさんあった。
 けれど全てを話すには、色々なものが不足していた。
 
「俺、パティシエになったよ」
 白く輝くコックコート。よく馴染んだ、適度に糊の薄れたエプロン。それが、彼の仕事着だった。
「貴女と同じパティシエに。…似合うかな」
 彼女はゆっくり頷いた。嬉しそうに、幸せそうに。
 相変わらず何も語ろうとはしないけれど、彼の声は、確かに届いている。
 
 春樹は抱えていた箱の、濡れて少し重くなった紙の蓋をそっと開けた。
 中からワンホールのケーキを取り出す。それを、彼女の目の前にそっと差し出した。
 
 桜の花弁をあしらった、華やかな桜色のケーキ。
 春樹が彼女のためだけに作った、最初で最後のケーキだった。
「ありがとう。今まで、本当に」
 そうすることで、全ての想いを。今までの全ての感謝が、彼女の元へ届くように。
 
「産んでくれて…ありがとう」
 
 女性は、優しく微笑んだ。
 そして春樹に向かって頷く。何度も、何度も。
 声が出ない代わりに。せめて残った想いだけは伝わるように。
 
 その時、奇妙なことが起こった。
 桜の木の下に立っている彼女の姿が、雨に当たる度に透けて行く。
 その変化に、彼女自身も気がついた。
 そしてもう一度、淋しげな表情の彼に頷いて見せる。
 春樹は、黙ってその様子を見ていた。
 ぱさぱさ。
 霧雨に掠められる度に色が薄れて、
 傘が消える。
 大地を踏みしめていた足が消える。
 白色のセーターが消える。
 肩より長い髪が消える。
 そして、優しい微笑が。
 
 いくらもかからない内に、桜の色の中に溶けるように消えた。
 
 落花。
 風も柔らかな、花散る時の昼下がり。
 
 花雨、桜時。
 その丘の上には、一本だけそびえる桜の木があった。
 折角の花は、晩春と雨のせいで見頃を終えていた。濡れた薄い花弁は、重くなりぱらぱらと地に落ちる。
 
 今はもう、ほとんど散ってしまったその下に、女性がひとり佇んでいる。
 桜色の、レースの傘を差した女性。真っ白なニットセーターにストライプのシャツ。濃い色のジーンズ。
 年の頃はまだ三十に届かない程。
 まるで誰かを待つ間、ぼうっと時間を潰しているような。そんな雰囲気で、霧雨に濡れる桜の花を、花曇の空を見上げていた。
 
 丘の下。
 何かを抱えて、ゆっくり彼女のもとへ近付いて行く人影があった。
 まるでレストランから抜け出して来た様な白い出で立ち。女性よりいくらか若い青年だった。
 彼の名は光野春樹。
 何かを大事そうに抱えている。その手に持つものを落とさないよう、その箱だけは濡らしてしまわないよう。
 歩きながら、胸ポケットから懐中時計を取り出して開く。
 チッチッ。
 少しくすんだ、骨董品に近いそれは、今もしっかりと時を刻んでいる。傷だらけでもよく手入れがされていて、その時計がいかに大事にされてきたかが伺える。
 
 サワサワ。
 草を踏み分けて、丘の上に辿り着く。
 そして、今も木を見上げる横顔に声を掛ける。
 
「やっと」
 彼女は振り返った。少し驚いたように、彼を見る。
 春樹は傘も差さずに彼女の前に立った。
「やっと、会えた」
 黙って微笑むその姿は、春樹にとって見覚えあるものだった。
 花を落とす霧雨。空も花の薄紅も、全てが朧。
 雨に打たれた髪は正に烏の濡れ羽色だった。一方の女性は、長い間待っていた割に少しも濡れていない。
「待たせてごめんね。もう、忘れられてるかと思った」
 春樹は、女性に微笑みかけた。
 少し照れながら、どこか嬉しそうに。
 
 
	
